コラム「春秋一話」
2025年06月30日 第7307号
寅さんと手紙~素直な思いの伝え方~
日本映画の中でもとりわけ人気のある「男はつらいよ」は誰でも一度や二度は見たことがあるだろう。国民的映画といっても過言ではないと思う。元々はテレビドラマとして放映されていたが、最終回で主人公の車寅次郎(通称「寅さん」)が奄美大島でハブに噛まれて死んでしまう筋書きにしたところ、テレビ局に猛烈な抗議の電話が鳴り響き、慌てた山田洋二監督が映画版として寅さんを復活させたのが始まりで、第1作は1969年に公開された。
この映画は人情の中にペーソスが含まれ、必ず失恋する寅さんの寂しさも相まって大変な人気映画になった。ところが不思議なことに、映画にはすべての作品に必ず「手紙」が登場する。いろいろな場面で手紙やはがき、書き置き、メモなどが登場し、作品にそれらが全く出てこないことは一度もないのだ。中には郵便局員が登場する回もある。
公開当初は夏のお盆の時期と年末年始の年2回上映されていたこともあり、お盆バージョンでは暑中見舞い、年末年始バージョンでは年賀状が頻繁に登場する。しかも寅さんが旅先から送ったはがきを、寅さんの声がナレーションとなって読み上げながらエンディングを迎えるという、極めて重要なシーンで使われている。
内容も不器用ながら誠実な気持ちがこもっており、普段は素直な気持ちを伝えられず、トラブルばかり起こす寅さんの率直な気持ちが綴られた内容なのである。そう思うと、下手な字でも一生懸命手紙を書いている寅さんの姿が目に浮かぶ。つまりこの映画は面と向かえば言えないことも、手紙やはがきなら素直に気持ちを伝えられることを視聴者に訴えているのではないかと思う。
令和の現代では、思いを伝える手段はほぼ100%メールやLINEであり、誰が入力しても同じ活字で送信される。そこには寅さん映画が全盛だった昭和時代の手書きの温かさはない。要件は伝わるが気持ちが伝わらないと言っても過言ではないかもしれない。
デジタル全盛の現代では仕方ないのかもしれないが、だからといって日本人が寅さんが持っていた心の温かさを失ったとは考えられないし、それを伝える気持ちがないとも思えない。つまりは自分の思いを下手でもいいから手で書いて、相手に送る喜びや楽しさを現代の人々が再認識すれば、手紙文化は決して消滅することはないのではないか。
幸い日本人は昔が好きである。「古き良き時代」としてノスタルジックな感情に浸ることが好きな国民である。そうとなれば、昭和を代表する「男はつらいよ」という映画で演出される手紙の良さが、もっと社会全般に浸透することで、手紙を書く人口も増えるのではないかと期待できる。
これまで寅さん映画はコメディ映画とかドタバタ映画と言われてきたが、手紙やはがき、電報、公衆電話などが当たり前に使われている昭和の映画としてみれば、現代の若者も興味を惹かれるのではないだろうか。
葛飾区の京成柴又駅の近くには「寅さん記念館」があり、劇中で登場する小道具のひとつとして寅さんが書いた手紙も展示され、連日多くの来場者がある。テレビでも頻繁に再放送され、いまだに高い視聴率を得ている。
そこで昨今の手紙減少を挽回する一つの案として、日本郵便が「寅さん記念館」と提携し、手紙の良さをアピールする機会を作ったらどうだろうかと思う。
過去に寅さんのオリジナルフレーム切手を発行したことはあるが、さらに日本郵便がバックアップして著名人を寅さん博物館に呼び、定期的に手紙文化を伝える講演会を開くとか、手紙の書き方教室を寅さん記念館で開催するとか、そういった一風変わったイベントを単発ではなく繰り返しやってみるのも価値があるように思う。
便箋に手紙を自分の手で書くことで、昭和にタイムスリップする体験は、案外中学生や高校生に受けるかもしれない。要件を伝えるというより気持ちを伝える楽しさを知ってもらえると思う。
確かにデジタル全盛の現状では手紙文化は廃れていく一方であろう。しかし寅さんの手紙好きを起点にして、何かしらの対策を打てば、まだまだ現代の若者にも手紙が受け入れられると思うし、そう信じたい。(有希聡佳)
2025年06月16日 第7305・7306合併号
複雑な郵便局~利用者目線での改善も
2007(平成19)年10月1日に郵政民営化がスタートし、郵便・貯金・保険の三事業が分割され、それぞれの会社が引き継ぐことになった。要するに郵便局という大きな傘の下で三事業を一体で行っていたものが分断された。各事業の間に垣根ができて相互に連携ができなくなった。
この民営分社化によって生じた大きな問題は、利用客の利便性が格段に悪化したことだ。特にいわゆる本局と呼ばれる単独マネジメント局の仕組みが複雑怪奇といっていいほどの状態となり、利用者が困惑する場面が多々生じることになった。
まずゆうちょ銀行が併設になった局と非併設の局とが約半数ずつに分かれた。そして、ゆうちょ銀行併設局の窓口では郵便と保険の二事業を、非併設局では郵便・貯金・保険の三事業を担当することになった。
そのためゆうちょを扱わない郵便局は貯金のことを質問されても全く回答することができず、ゆうちょ銀行を案内するしか方法がなくなった。お客さまからは当然、「あそこの局なら教えてくれるのに、なんでこの局では分からないのか」とクレームになる。
また、郵便窓口の営業日もまちまちであり、例えば江東区と足立区、葛飾区を見ると、葛西郵便局は平日のほか土日祝日も営業しており、365日無休で営業している。しかし、深川郵便局や葛飾郵便局、足立郵便局は平日のほか土曜日は営業するが日祝日は営業がない。さらに、葛飾新宿郵便局や足立北郵便局、足立西郵便局は土曜日の営業もなく平日しか営業がない。同じ規模の本局でありながらこれだけ取り扱い時間がバラバラだと、お客からは利用しづらくて仕方ないとの声があがる。
さらに分かりづらいのは郵便関係の業務の切り分けで、商品の販売や差し出しは窓口営業部の「郵便窓口」で対応しているものの、不在票を持ってきてゆうパックなどを引き取る場合は郵便部の「ゆうゆう窓口」で対応していることだ。
ところがお客はそんな仕組みを知らず、ほとんどが郵便窓口に来て不在票を提示し受け取ろうとする。しかし、端末システムの操作権限上、郵便窓口で対応することができないため、ゆうゆう窓口に行くように案内すると、「たらい回しにするのか」とクレームになる。
その一方、郵便局によっては郵便窓口で受け取りをする仕組みになっている局もあり、分かりづらさに輪をかけている。
また、ゆうゆう窓口について言えば、土日や祝日など郵便窓口が開いていない日や時間帯は商品の販売やゆうパックなどの引き受けも行っている。そのためお客からすれば当然いつもそれらに対応してくれるものと思い込むが、実は平日はその業務は行っておらず、平日にゆうゆう窓口で郵便物などを差し出そうとすると、「隣の郵便窓口に行ってください」と言われる。
お客からすれば「この前は対応してくれたではないか」となり、さんざん順番を待った挙句に言われれば余計怒ってしまう。
これだけややこしいと、常連客以外はいつどこの郵便局のどの窓口で何を扱っているかがよく分からず、郵便局の窓口ロビーでウロウロすることになる。これでは利用する側も不便だし、クレーム対応する窓口担当者も精神的に疲弊してしまう。
なぜこれだけ複雑に入り組んだ仕組みになったのか。郵便局を利用する人たちの利便性まで損なわれたのでは、「郵政民営化で不便になった」としか国民に認識されない。郵政関連法案の改正が議論されている中、組織的な改革と同時に、現場レベルの改革も必要だと思う。
単独マネジメント局は業務内容と営業時間を全国一律にしてスリム化すれば、無駄に窓口の行列に並ぶことも文句に対応する社員の労力もなくなり、かなりの効率化を図れるのではないだろうか。民営化で様々な問題が噴出したが、利用者目線からのサービス向上も求められるだろう。(有希聡佳)
2025年06月09日 第7304号
猛暑で変わるさまざまな定番
夏といえば「花火」「夏祭り」「浴衣」「セミ」「かき氷」「スイカ」「風鈴」などをはじめ、いろいろな「夏の風物詩」と呼ばれるものがある。近年の夏の猛暑の影響で、それらにも変化が起こっている。
花火を見てみると、東京・荒川の河川敷を会場に、毎年7月に開催されてきた「足立の花火」が、雷やゲリラ豪雨等の天候リスクや熱中症対策の観点から、5月開催へと変更された。なお、5月31日に開催予定だった足立の花火は強風の影響で中止となった。落雷の恐れから中止となった昨年に続いて、2年連続で中止となった。
山形県酒田市の最上川河川敷で毎年8月第一土曜日に開催されてきた「酒田の花火」も、令和7、8年度は9月の第二土曜日の開催となった。
栃木県小山市で毎年7月の最終日曜日に開催されてきた「小山の花火」も、熱中症等のリスクやゲリラ豪雨等の悪天候における避難時の安全確保の観点等から、令和7年度は9月23日に開催し、令和8年度以降は10月の第1土曜日の開催となった。
花火大会も含めた祭りにも変化が。熊本県菊池市の「菊池白龍まつり」は、参加者・来場者に快適な環境で祭りを楽しんでもらうため、令和6年から開催日を10月に変更している。
福島県の相馬地方で3日間にわたって行われる「相馬野馬追」は、これまで毎年7月最終土日月曜日に開催されてきたが、温暖化による馬や人への影響を考慮して、令和6年度以降、開催日程が5月最終土日月曜日に変更となった。
他にも全国各地、これまで長きにわたって行われてきた「夏の定番」のイベントが、別の時季に開催されることになったところがある。開催時期の変更に反対する人もいるだろうが、この先もこうした動きは出てくると思われる。
そうした中、夏の高校野球(全国高等学校野球選手権大会)についての議論が毎年のように巻き起こっている。大会運営で課題となるのがやはり球児たちの安全、近年の猛暑への対策だ。
2023年には試合中に10分間の休憩を挟む「クーリングタイム」が初めて実施されたが、球児の中には「体が冷えてしまい、動きも悪くなり、ケガのリスクもある。普段から暑い中で練習をしているので必要ない」といった声もある。さらに、クーリングタイムの前後で、それまで好投していた投手がコントロールを乱し、試合の流れが変わってしまう、あるいは野手が守備や走塁の場面で足がつってしまい、交代を余儀なくされるというケースも見られる。選手たちの安全面を含め、このクーリングタイムについては、その時間内の過ごし方、さらには制度そのものも含め、考えていく必要がありそうだ。
そして、昨年の夏の高校野球では、第1日から第3日までの3試合日で、午前・夕方の2部制が導入された。気温の高い昼間に試合を行わず、朝(午前)と夕方以降の時間帯に分けて試合を行う、というものだ。今夏の大会では、大会初日から第6日目(1回戦全試合と2回戦の2試合)までは午前・夕方の2部制で試合が行われる。
また、猛暑対策だけでなく、選手の安全面等も考えて、タイブレーク制度(試合が9回終了時点で同点の場合、10回以降は無死1・2塁の場面から開始する)が導入され、これまた議論を呼んでいる。さらには甲子園ではなく、大阪ドームなどのドーム球場で開催する案や、試合を9回までではなく7回までにする「7回制」の案も出ている。
いずれにせよ、簡単に結論付けられるものではないが、一度新たに導入した制度を撤回して見直すこともありだと思う。今夏の大会も含め、今後どのように変わっていくのか、見守っていきたい。(九夏三伏)
2025年06月02日 第7303号
郵政民営化とアメリカ金融業界
郵政民営化法が成立してからまもなく20年が経つ。郵政民営化にアメリカ金融業界の意向はどう働いてきたのだろうか。
アメリカが日本に対して規制改革、民営化を要求するようになった大きなきっかけは、日米貿易摩擦の激化だった。1989年に日米構造協議が始まり、1993年7月には宮澤喜一首相とクリントン大統領との会談で「日米の新たなパートナーシップのための枠組みに関する共同声明」が出された。これが、日本に対する年次改革要望書の始まりとなった。
アメリカは1994年から2008年まで毎年要望書を提示してきた。要求は金融、保険、通信、医療、流通、雇用など多岐にわたっていた。
郵政民営化法は2005年に成立したが、アメリカはすでに小渕恵三政権時代の1999年の要望書で「民間保険会社が提供している商品と競合する簡易保険を含む政府及び準公共の保険制度を拡大させる考えをすべて中止し、現存制度を削減又は廃止すべきかどうか検討すること」を求めていた。その後、アメリカは繰り返し郵政民営化を要求していたのである。しかも、アメリカの保険会社会長が2004年以降、与謝野馨政調会長に陳情し、日本の保険市場を開放するよう求めていた。郵政民営化はアメリカの金融業界の意向に沿って進められたと考えられる。
郵政民営化だけではない。人材派遣の自由化、大店法の廃止、公正取引委員会の権限強化、建築の規制緩和、時価会計制度の導入、司法制度改革などアメリカ政府が年次改革要望書で要求してきたことを、日本政府はことごとく実行に移してきた。
ところが2009年の総選挙で自民党が敗れ、鳩山由紀夫政権が誕生すると年次改革要望書は廃止された。しかし、アメリカは2011年に「日米経済調和対話」を設置して日本への要求を続けた。
一方、対日要求の主要舞台はTPP(環太平洋パートナーシップ)交渉に移りつつあった。2012年12月の総選挙で自民党は政権を奪還、第二次安倍政権はTPP参加に舵を切った。麻生太郎金融担当相は2013年4月12日、「かんぽ生命ががん保険のような新たな保険商品を申請しても、かんぽ生命の適切な競争関係が確立されたことが判断できるまでは認可を行う考えはない」と述べた。日本郵政がアフラックとがん保険事業で業務提携すると発表したのはその3か月後のことだ。『東洋経済』(2013年8月10号)は、こうした動きについて「かんぽ生命をめぐる一件は、TPP交渉入りの〝持参金〟と見なされた」と書いている。
ここで注目したいのは、アフラックのチャールズ・レイク氏が会頭を務めていた在日米国商工会議所(ACCJ)の役割である。
年次改革要望書のスタートと同時期、行政改革委員会が発足し、1995年には規制緩和小委員会が設置されている。この小委員会ではACCJからの規制緩和要望ヒアリングが行われていた。
2005年の郵政民営化法審議過程で、ACCJのデビー・ハワード会頭は「郵政民営化は商工会議所が優先して支持しているものだ」と強調し、郵政民営化法案は10月半ばには可決されると期待していると述べていた。
ACCJは2006年5月には公正取引委員会に意見書を提出し、「郵政公社の民営化プロセスが、民営化後の郵政新会社とその民間競合者の間に対等な競争条件を確立することを確実にするため」に積極的な役割を担うよう求めている。そして、第二次安倍政権発足直前の2012年11月、ACCJは日本政府がかんぽ生命の業務拡大を認可したことに強く異議を申し立てている。その後もACCJは、郵政民営化委員会などに対する意見を発信し続けてきた。
現在進められている郵政民営化法改正では、ゆうちょ銀行、かんぽ生命に対する上乗せ規制の緩和は見送られ、3年ごとの郵政民営化委員会の検証の際に検討することとなった。
日本政府はACCJの意見の前に、広く国民の意見を聞き、主体的な立場で政策を検討すべきなのではなかろうか。(酒呑童子)
2025年05月26日 第7302号
文学の師弟関係~才能は才能を呼ぶ
日本の文学史上、文豪と言われる作家は大勢いる。ところがそれぞれの経歴を見てみると、意外にも師弟関係にある組み合わせがいくつもあることに気付かされる。具体例を挙げると、まずは夏目漱石と芥川龍之介の組み合わせである。
夏目漱石は松山での教師時代の経験を元に書いた「坊ちゃん」で有名だが、その漱石が才能を発掘したのが芥川龍之介である。芥川の「鼻」という作品を漱石が読み、非常に高い評価を与えた。
その後、芥川も次々と名作を発表し、漱石が明治時代を代表する作家なら芥川は大正時代を代表する作家になった。明治・大正期には名だたる作家がひしめいているが、漱石と芥川という二人の文豪以上の才能の組み合わせは他にないとも思える。
この漱石―芥川をひとつのラインとするなら、もう一つ特筆すべきは川端康成―三島由紀夫ラインである。川端は言わずと知れた日本人で最初にノーベル文学賞を受賞した作家である。当時、川端は「人間」という文芸冊子を創刊し、文学を志す若者が多数寄稿していた。その中でひときわ川端の目を引いたのが三島由紀夫だった。
三島の「煙草」という作品を高く評価し、そののち三島が自決して果てるまで師弟関係は長く続いた。三島が市谷の自衛隊駐屯地で総監を人質にして演説をして果てた時も川端はいち早く駆け付け、三島の死を惜しんだ。三島の作品は今でも多くの外国語に翻訳され、日本の作家としての知名度はおそらく師匠の川端以上である。
この川端―三島ラインの組み合わせは漱石―芥川ラインに負けず劣らず才能の塊だが、才能の塊は他にもまだある。それは井伏鱒二と太宰治のラインである。
まだほとんど無名作家だった井伏の「山椒魚」が掲載された文芸冊子を、青森の高校生だった太宰がたまたま目にし、あまりの完成度の高さに興奮し、その勢いで東京まで出てきて井伏に弟子入りしようとした。それも太宰らしく「会ってくれなければ死んでやる」との手紙を送りつけ、なかば強引に弟子入りしてしまった。
まだ無名の作家の作品を読んで才能を見抜く太宰の眼力もすごいが、井伏も太宰の処女作「晩年」を高く評価し、この井伏―太宰ラインも長く続いた。太宰がさんざん薬物やアルコールで破滅的な生活をしようとも、その才能を潰してしまうのが惜しく、井伏は最後まで太宰の面倒を見た。師匠の井伏自身も原爆を題材にした「黒い雨」や「ジョン万次郎漂流記」などの名作を残し、後世の人々に影響を与える作家となった。
太宰に関して言えば、その才能を三島も認めており、「日本の近代文学の中で、太宰さんほど才能のある人は他にいません」と明言しており、その音声も残っている。
また三島は生前「川端さんの次にノーベル文学賞をもらうのは俺ではなくて大江健三郎だ」と予言しており、実際三島の死後24年経ってそのとおりになった。三島の才能を見抜く能力にも舌を巻く。
こうした「漱石・芥川」「川端・三島」「井伏・太宰」の組み合わせは、どうみても飛び抜けた才能が別の飛び抜けた才能を磁石のように引き寄せたように思える。
時代が下って令和になった今、こうした抜群の才能が別の才能を呼び寄せることはあるのだろうか。毎年、直木賞や芥川賞が発表されるが、どの作家もいわば一発屋で終わってしまい、とても文学史に名を残すような存在になっていないことが多い。
昨今の読書離れの風潮も作家を成長させる原動力を失う原因になっているのだろうか。これから前述したクラス級の作家が誰か現われれば、それに吸い寄せられるように次々と優れた作家が出現するのかもしれない。一人の文学ファンとして、その状況になるのを楽しみに待ちたい。(有希聡佳)
2025年05月19日 第7301号
大宮エリーさんを偲んで
作家や脚本家、映画監督、舞台演出家、ラジオパーソナリティー、画家、コピーライター、CMディレクターをはじめ、多方面でマルチな才能を発揮して活躍する大宮エリーさんが4月23日、病気のため逝去した。享年49歳。
エリーさんは2015(平成27)年3月21日に開催された、KITTE開業2周年記念イベントでのトークショー、2016(平成28)年6月20日開催の「2017年の年賀状サミット」での講演をはじめ、全日本年賀状大賞コンクールで「大宮エリー賞」が設けられるなど、日本郵便とも大いにつながりがあった。
2020(令和2)年6月21日から毎月1回、日曜日に日本郵便×大宮エリーで〝手紙の大切さ〟を伝えるプロジェクトとして、YouTubeチャンネルやインスタグラムで、視聴者がチャットで参加できる形で手紙講座配信をスタートした。
2023(令和5)年8月には、日本郵便切手・葉書室の光山實担当部長の計らいで、エリーさんにインタビューをさせていただいた。その模様は本紙の同年10月16日付3面に掲載している。初めてお会いするのに、もうすでに知っているかのように自然に温かく迎えていただき、ホッとしたことを覚えている。
通信文化新報が主に郵政部内の人を対象とした新聞であることを知ったエリーさんが、せっかくの機会だし、もっと多くの人に通信文化新報を知ってもらえるよね、という計らいで急遽、配信の中での公開インタビューとなった。
インタビューでは、「手紙を送る相手をイメージして切手を選んでいる」「手紙が送られてくると嬉しいもの。手紙でしか伝わらない何かがあると思う」など、とてもフランクに語ってくれた。
この時の配信は、エリーさんの自伝的作品であり、大宮エリー事務所と株式会社CinemaLeapが共同製作した、エリーさんにとって初挑戦となるVR映画「周波数」が、第80回ベネチア国際映画祭エクステンデッドリアリティ(XR)部門「Venice Immersive」にノミネートされ、ベネチアに向かう前に行われたもの。
現地では元気な姿を見せていたが、その後、体調があまり良くないことを伝え聞いていた。そうした状態でも、エリーさんは精力的に活動を続けていた。
今年2月3日には「節分にまつわる、お手紙出します!」と題し、インスタグラムによる配信を行った。体調の関係で声が出づらかったことから、筆談を入れながらの配信となった。
節分にちなんで、鬼のイラストを描き、「無病息災」の言葉が添えられた。そして「特にイベントごとではないタイミングでお手紙出すのもいいですよね」と話していた。
3月6日にはインスタグラムで、「♯手紙講座で視聴者の皆さんへお届けした手紙たち」として、「12月には、紅葉お手紙。1月には、年賀状。2月には、節分のお手紙。配信内で作成して、視聴者の皆さんへプレゼントしてきました」と紹介。
節分と、巳の年賀状の写真と、紅葉お手紙を自ら持つ写真をアップし、「お手紙を書こう!と思うと、日常のなんてことない場面や季節の移り変わりなども意識して感じるようになる気がします」と記していた。
エリーさんの訃報が報じられると、女優の宮沢りえさんや歌手の相川七瀬さん、ギタリストの布袋寅泰さん、女優の池上季実子さん、お笑いコンビ・チョコレートプラネットの長田庄平さん、宇宙飛行士の山崎直子さんをはじめ、各方面から多くの悲しみの声が寄せられている。多くの人に慕われたエリーさんの人柄がうかがえる。
大宮エリーさんのご冥福を心よりお祈りいたします。(九夏三伏)
2025年05月05日 第7299・7300合併号
主権回復の先駆け 日米郵便交換条約
明治8(1875)年に「日米郵便交換条約」が施行されてから150年が経った。この条約の締結過程は、郵便事業が国家主権と不可分であることを示しているのではなかろうか。
幕末の安政5(1858)年、日本はアメリカと日米修好通商条約を結び、その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の修好通商条約を結んだ。問題は、これらの条約が相手国に領事裁判権を認め、日本に関税自主権を認めない不平等条約だったことだ。しかも、我が国は「通信主権」も奪われることになった。その象徴が、米英仏が横浜、長崎、兵庫に設置した郵便局であった。
前島密翁の建議によって明治4(1871)年3月に日本の郵便制度はスタートしたが、日本国内の外国郵便局はそのまま存続していた。前島翁は、同年8月にヨーロッパから帰朝すると、ただちに横浜にある英米仏の郵便局を訪問し、その局長と面会した。
当時、英米仏は本国から日本に居留している各国民宛てに手紙を届けることができた。しかし、英米仏にいる日本人が日本に手紙を出しても、そのまま差し戻されていたのである。こうした状況は不便であるだけではなく、主権にかかわる問題だった。前島翁は、国内に外国の役所が設置されている状況は国家の独立を大きく侵害するものだと考えていた。そこで、当面の措置として、前島翁は外国郵便局の私書函を駅逓寮名義で借りることにより、外国から日本人宛てに届いた郵便物を駅逓寮で配達することを承諾させた。
しかし、この交渉中、外国側は「交換条約は文明国同士が互いに同基の権利で結ぶべきもの」であり、条約締結に本国は応じないだろうと冷ややかだった。これに対して前島翁は「今から数年の後には、この帝国内に外国政府の郵便局を置くべき所もなくなり、またすべて日本から発する郵便物は帝国の国境を出るまでは決して外国郵便官吏の手に触れるという事はない様になる」と言い切った(『鴻爪痕』)。
日本政府は明治6年2月、日米郵便交換条約締結に向けて、アメリカとの交渉を申し入れた。幸いなことに、米国公使デロングは条約締結に協力的だった。日本はデロング公使から紹介された、アメリカ郵政省職員のサミュエル・ブライアン氏を雇い入れ、彼をアメリカに派遣して交渉に当らせた。
同年8月6日、ワシントンで日米郵便交換条約が締結され、明治8年1月1日、条約が施行され、横浜、兵庫、長崎の在日米国郵便局は撤去された。
この日、前島翁は「帝国史に特筆大書すべき一大吉辰」として、駅逓寮の同僚100余名とともに祝杯を挙げ、「久しく侵害されていた通信上の国権恢復」を喜んだ。祝辞の中で、前島翁は「我菊花今日よりその秀麗なる光輝を世界の人眼に映射せん」と語っている。菊花章のついた日本の郵便切手が世界諸国の人の目に触れるという意味だ。彼は「この語は一生忘れられない大壮快な言葉の一つ」だと振りかえっている。
同月5日、横浜郵便局とサンフランシスコ郵便局が郵便物の交換本局に指定され、外国郵便業務が開始された。これに合わせて、郵便役所・郵便取扱所が「郵便局」に改称された。
この日は、我が国が外国郵便業務を開始した日であるだけではなく、不平等条約によって制限されてきた主権の回復へ向けて一歩を踏み出した日でもある。『朝野新聞』は「条約改正はなぜできないのか。郵便条約は済んだではないか」と書いている(明治8年7月14日付)。寺島宗則外務卿が不平等条約改正を目指して動き出したのは、その直後のことである。しかし、改正は長い時間を要した。治外法権が撤廃されるのは19年後の明治27(1894)年、関税自主権を回復するのは明治44(1911)年である。
日米郵便交換条約締結について、郵政大学校副校長を務めた小川常人氏は「通信上の日本の国権を恢復したというだけではなく、日本が欧米と対等の立場で締結した最初の条約であり・・・・・・不平等条約改正の前駆的役割を果した」と明確に述べている。
前島翁が志した通信主権回復の重要性を忘れてはなるまい。(酒呑童子)
2025年04月28日 第7298号
経済学と日常生活の深い関係
何か欲しい物があるとき、それを買うのはいつにすべきだろうか。一般的には、「それを購入するお金がある時に買う」、もしくは「必要になった時に買う」と考える人がほとんどだろう。確かにそれはそうなのだが、経済学を元にして考えると、必ずしもそうではないことが分かる。
例えば最新の商品が発売になった場合、それを欲しいと思ったのなら、その時に買うのが一番効用が高いと経済学では考える。なぜならそれを欲しいのは「今」であって、1週間後や1か月後に欲しいのではない。あくまで予算や代替品との比較検討など他の要素を考慮しない前提であれば、欲しいと思う時に購入するのが一番満足度が高く、一番効率的なのである。
1か月後に購入するのでは、その1か月間は我慢しなくてはならない。しかもその頃には購入意欲も減退しているかもしれない。1か月我慢したあげく以前より欲しくなくなった物を購入するのは、消費者にとっての満足度が減少していることになり非効率である。このように経済学では、投じた資金に対する効用(満足度)も考慮に入れて考え、いつ購入すべきかを考える。
他の身近な例では、私たちが真夏の海に行った時にビールを飲むと非常にうまい。これは最初の一口が一番うまい。しかし何口も飲んでいるうちにそのうまさは階段を下りるように逓減していき、満足度が減っていく。しまいには腹がふくれ、のどの渇きも癒えて、もう飲みたくなくなる。
そのビール缶が例えば350円だったとしたら、最初の一口で半分の180円分くらいの満足度を得てしまい、次の一口で100円分、次が50円、次が20円、最後はただ飲んだだけで満足度は0円となり、トータルで350円分の対価を消費したことになる。
つまり満足度は最初が一番高く、次第にその満足度は減っていくということであり、これは経済用語で「限界効用逓減の法則」という。これはほとんどすべての事象に当てはまる。したがって欲しい物が生じたらその時に買うべきであり、何か飲食する時は最初の一口に集中すべきなのである。
こうした考えは企業のような組織にも当てはまるが、規模が大きいだけにより大きな意味を持ってくる。特に製造業では何か新しい製品を発売すると、最初こそ関心を持った消費者が殺到して好調に売れるが、時と共に関心も薄れていき、そのうち買われなくなる。企業は次の新製品を作ってまた売りに出すことになり、その繰り返しで常に新商品の開発をしなければならない。
サービス業では何か付加価値を付けると最初はありがたがられるが、そのうち消費者はそのサービスを受けること自体が当たり前になってしまい、ありがたくなくなってしまう。郵便局や宅配業者の転送サービスなどもその例だ。転居先に無料で郵便物や荷物を転送するサービスは本来の業務に上乗せしてできたサービスであり、元々こうしたサービスはなかった。
しかしこの制度は現在では当たり前の取り扱いに思われ、速やかに転送されないと苦情になる。最初は感謝されたサービスが時代とともにありがたさが薄れ、今では義務になってしまっている一例である。
このように製造業にしろサービス業にしろ、常に消費者の「飽き」や「慣れ」にさらされ、会社は満足度が逓減していくことを食い止めるために、絶えず革新をしなければならない。また消費者の満足度は最初が一番高いことを考えれば、いつ新商品やサービスの提供を開始するかを慎重に見極め、その限界効用がいつ逓減に転じるかを分析しなければならない。
私たち消費者も、目の前にある自分の持ち物を目にした時に、それを最初に購入した時の感激や嬉しさを思い出し、自分の中にある限界効用を今一度100%に戻してみると、案外見慣れた持ち物も新鮮に見えるのではないだろうか。 (有希聡佳)
2025年04月21日 第7297号
生真面目な日本人~幼児教育の大切さ
東京都心部に通勤していると、JRや地下鉄のダイヤが乱れることが多く、遅延が発生する。理由はいろいろあるが、単純に混雑が原因になることもあれば、人身事故や車両の故障、急病人の発生、乗客同士のトラブルなど様々である。今朝もJR総武線で人身事故が発生したため早朝から電車が運行見合わせになり、ホームは人であふれていた。しかも見合わせが長時間になったため改札口も閉鎖してしまい、駅に入れない大勢の人たちでごった返していた。
ところが誰も文句も言わず、黙って改札が開くのをじっと待っていた。8時過ぎになってようやく電車が運行を再開し、改札も少しずつ乗客を受け入れたが、皆黙々と駅構内に入り、駅員の指示通りにホームに向かって歩き始めた。筆者はこうした光景を見て、日本人のこの生真面目さというかお行儀の良さはどこから来るのだろうかと考えた。
そこで以前テレビで見た教育番組を思い出した。それは、日本人は日常生活で必要な規律を幼い頃からきちんと学んでいるため、他の国民より理性的に判断し、行儀良く振舞えるのだそうである。ほとんどの子供が幼稚園か保育園に通園するが、そこにある遊具での学びが大きく影響しているそうだ。
例えばブランコでは「危険」ということを学ぶ。前後に動いているものの近くにいればぶつかってケガをする可能性があり、自然と危険な対象物から離れることを学ぶ。また滑り台では「順番」を学ぶ。一人ずつ順番に階段を登り、一人ずつ下りてくる。相手を思いやり順番を守ることで、整然と物事が進行していくことを学ぶ。
砂場では「片づける」ことを学ぶ。シャベルやバケツなどを使って遊んだ後は、きちんと砂を払って、それらを持ち帰ってくる。ジャングルジムでは「方向」を学ぶ。自分の行先をその場で考え一段ずつ上に登っていく。行き先を自分で考えることで、進路を自分で決めていく。シーソーでは「バランス」を学ぶ。自分が上がれば相手は下がる、逆もまたしかりである。自分の立場と相手の立場を体と視覚で認識し、相手の状況を理解する。
こうした学びを幼少期からすることによって、日本人は大人になっても秩序や順番を守ることができ、整理整頓ができる人間になるというものだった。こうした遊具が外国の幼稚園や小学校にもあるのかどうか知らないが、少なくともこうした体験が社会生活に必要な理性の育成に貢献しているのは間違いない。
前述した交通機関のトラブルでも、こうした原体験が根付いているため、混乱を起こさずに粛々と対処できるのだと思う。それが日本人の国民性でもあろう。日本人の礼儀正しさや物事をわきまえる姿勢がこうした幼少時の体験に大きく依っているとしたら、幼児教育をもっと重要視することで、彼らが大人になった時に日本全体が良識を持った人々で満たされるのではないだろうか。
「教育」という言葉を聞くと、多くが小学校や中学校での教師による科目授業や家庭での親のしつけを連想する。もしくは有名中学や高校に入るためのいわゆる「お受験」や偏差値を連想する。しかし、もっと前の幼児期にこそ人間性を育む重要な時期があるようにも思う。
近年「闇バイト」なるものが横行し、若者が会ったこともない人間からの指示、それも電話での指示でいきなり他人の家に押し入って強盗をするご時世になっているが、こうした他人を思いやれない若者はもしかしたらきちんとした幼児教育を受けてこなかった背景があるのではないだろうか。
今朝の電車の遅延から、幼児教育・日本人の国民性など、いろいろな連想を巡らせた1日となった。(有希聡佳)
2025年04月14日 第7296号
リボンで子どもたちの食を支える
子どもの「食」に関する取り組みが各地で行われている。平成31(2019)年、鳥取市では郵便局ネットワークを活用したフードドライブが始まった。鳥取県因幡地区連絡会の55局にフードボックスを設置して、家庭で利用しない食品を市民から持ち寄ってもらい、それらをこども食堂へ寄付するというもので、郵便局と行政が連携してこども食堂へ支援する全国初の取り組みとして注目された。
その後、こうした動きは全国へと広がりを見せており、郵便局でもフードバンクへの食品の提供など、さまざまな形での取り組みが行われており、その数も増えている。
こども食堂は、家庭の事情等で十分な栄養の食事をとることができない子どもたちに対して、子どもが1人でも行くことができ、無料あるいは低料金で食事を提供することを目的に始まった。
そのスタイルも多様で、月に1回だけ開催しているところもあれば、1年365日朝昼晩3食を提供しているところもある。子どもが数人程度利用しているところもあれば、大人数が集まるところもある。子どもの孤食の解消、食育、交流の場にもなっている。
運営費やスタッフの確保、地域との連携、食中毒等の保険衛生面といった課題もある中で、こども食堂はいわば民間発の自主的な取り組みとして、各地で増加し続けている。
そうした中、フードリボンプロジェクトというものが最近、注目されてきている。「フードリボン参加店」のステッカーが掲げられた飲食店に行き、お客さんは1つ300円のリボンを子どもの一食分として「先払い購入」し、店内のボードに掲示する。店に来た子どもたちは、それらの掲示されたリボンを1つ手に取って、1食分の食事ができるという仕組みだ。店によっては、お客さんからのメッセージや子どもからの返事が書かれているところもある。
対象となる子どもの年齢や、利用時間は店によって異なるほか、提供される食事メニューは、まかない食のようなイメージとなっている。
フードリボンのリボンは、福祉作業場で働く人たちが作成している。フードリボンに取り組む飲食店が増えていくと、リボンを作成する個数も増え、障がい者雇用への貢献にもなる。
この取り組みを知った時、何となく「こども食堂」みたいだな、と思ったが、それもそのはず。フードリボンプロジェクトは令和3(2021)年5月に、子どもたちが当たり前にご飯を食べられる場所を作りたいという思いから、飲食店による新しいこども食堂の仕組みとして、一般社団法人ロングスプーン協会(千葉県市川市)が始めたものだ。
ロングスプーン協会では、令和5(2023)年4月に千葉県市川市と提携して以降、全国10か所の自治体と提携するなど、フードリボン活動の普及を全国各地域で進めており、全国の小学校区に1か所ずつ活動店舗を設置していこうと取り組んでいる。これまでに、2025年3月15日時点で、フードリボン参加店は238か所、実施店は171か所(67か所は準備中)。また、子どもたちのために支援されたリボンは6万6120食分、子どもたちに届けられた食事は4万8510食(2025年2月末時点)となっている(ロングスプーン協会ホームページより)。
特に食に困ってはいないが、利用していいのか迷ってしまう子どもがいる、あるいはフードリボンについて、利用する子どもや親へ十分に浸透していないといった課題もあるというが、子どもたちの今日の一食を、ペイフォワードで支える新たな仕組みとして、今後ますます注目されていくと思う。(九夏三伏)
