コラム「春秋一話」
2025年12月22日 第7332・7333合併号
太宰と三島と大江
コンプレックスを芸術にした男たち
昭和を代表する作家は多数いる。中でも日本人として2人目のノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は代表的な存在である。しかし、作品は非常に難解で、最後まで読み通せる読者の方が少ないのではないかとも思える。特に「個人的な体験」「飼育」「万延元年のフットボール」「遅れてきた青年」「性的人間」などの初期作品は文章と文章の関連性がよく分からず、途中で挫折してしまいがちになる。
そんな難解な作品を書く大江が尊敬してやまなかった作家が2人いる。太宰治と三島由紀夫である。この2人は日本文学史に名を残す作家であり、現代の若者でも知らない人はいないほど有名だ。
特に太宰の命日である6月19日は「桜桃忌」と呼ばれ、三鷹にある禅林寺には多くの若者が訪れて花を手向ける。また、三島の命日の11月25日は「憂国忌」と呼ばれ、これも多くの若者が墓前に集まる。大江は生前に様々な大学で講演会を行っており、そこで太宰文学や三島文学の卓越ぶりを紹介しており、その音声記録も多数現存している。
大江が尊敬した作家なのだから、太宰も三島も同じような作家なのかと思いがちだが、実は全くそうではないところが興味深い。太宰と三島は作風も正反対の方向を向いており、相容れるところがほとんどない。太宰の文体は非常に平明で分かりやすく、読者の心の中に素直に入ってくる。一方、三島の文体は硬質できらびやかであり、言葉を吟味しながら読まないと頭に入ってこない。その意味では大江の文体は三島に近いと言える。
ところが小説のテーマは大江はむしろ太宰に近いところがある。太宰は自分の生い立ちを自伝風に書いた作品が多く、過去の事実を脚色して小説に仕立てる達人だった。そして大江も自分自身をモデルにした作品が多く、特に障害を持って生まれた息子を題材にした作品がある。つまり文学の方向性では太宰と大江が近い関係にある。
こうしてみると、太宰・三島・大江の三者間の文学的関係が明らかになるが、よく読み比べてみると、実はこの3人は根底ではつながっているように思う。それは「コンプレックス」という抜き差しがたい負の側面を作品にしているということだ。
太宰は「人間失格」で代表されるように、自分を徹底的に卑下し、人間の弱い面を前面に出すことで人間の普遍性を表現している。一方、三島は「仮面の告白」という作品で自分の性的指向や考え方が普通ではないことを告白しており、これも誰もが自己に抱く負い目を表現している。言ってみれば「人間失格」と「仮面の告白」は表現形態の違いはあっても根底の部分は同じである。
大江に「死者の奢り」という作品があるが、それも人間の暗い内面を表現しており、明らかに太宰と三島の影響を受けているように読める。この「死者の奢り」は人間の死体を洗うアルバイトで出会った若い男女を通して生と死の意味を問う作品だが、これも自分の陰の部分を投影させている。
この著名な作家3人は生きた時代は違っても、それぞれが相手を尊敬していた。三島は太宰の自堕落な生きざまを嫌悪したが、文学上の才能は絶賛した。また、三島は大江が将来ノーベル文学賞を取ることを予言し、実際その通りになった。大江はこの2人の作家の文学的才能を尊敬し、両者のエッセンスを取り入れながら歴史に名を残す作家になった。
人は普通、自分の弱い面は隠したがるものである。それをこの3人の作家は逆にそれを文学作品にして世に問うた。太宰はかつて「小説を書くということは、裸になって通りを歩くようなものだ」と言ったらしいが、実際そうなのだろうと思う。とりわけ、普通なら隠したがる自己の負の部分を作品にする作家はそうだと思う。
文学史上に残る作家はいくらでもいるが、この3人の作家は、文学上の系譜では一本の線で繋がっているように思う。この3人のうち誰かの作品をこれから読むとしたら、皆さんは誰を選ぶだろうか。 (有希聡佳)
2025年12月15日 第7331号
「コスパ」と「タイパ」
毎年、いくつもの新たな言葉が出現しては消えていく。いわゆる流行語になる言葉もあればすぐに消える言葉もある。最近では「コスパ」と「タイパ」という表現が出現した。「コスト・パフォーマンス」と「タイム・パフォーマンス」のことで、日本語に直せば「費用対効果」と「時間対効果」である。
一定の費用や時間に対してどの程度の効果が生じたかを表現する言葉だが、これはおそらく経済用語として定着すると思われる。なぜなら私たちは社会生活の中で、常に無意識にもこれらに従って行動しているからである。
例えば、誰でもいつも行く店で割引セールや半額セールをしていたら嬉しいだろう。それが期間限定や数量限定だったら、あわてて買いに行くはずだ。同じものを手に入れるなら、なるべく安く手に入れたいと思うのが人情だからだ。
しかし、それも状況によって変化する。もし1キロ離れた店で、本来1万円の商品が9千円で売っているとなれば、多くの人がそこまで買いに行くだろう。しかし、それが10キロ先だったらどうだろうか。
やっぱり片道1時間かけてそこまで買いに行くだろうか。多くの人は地元で1万円払って、その商品を手に入れると思う。これは千円のために10キロ先まで行くことは、いわゆる「タイパが悪い」からである。
私たちが普段何かを購入する時も同様だ。特に昨今では物価高傾向が続き、今までなら買えたものが同じ値段では買えなくなった。チョコレートなどは原料のカカオの高騰により、今まで120円程度で買えたものが200円くらいになっている。他のあらゆる商品も大同小異である。
つまり経済学的に言えば、1円の価値が下がったことになる。チョコの例でいえば、今までは1円玉120個でチョコレート1枚と交換できたのに、1円玉1つの価値が下がったために200個ないと交換できなくなった。購入するときの満足度をパフォーマンスとするなら社会全体の「コスパが悪くなった」と言える。
これは国際的に見た通貨の為替レートでも同様だ。数十年前は1ドル100円の時代があったが円安が進み、現在ではおよそ1ドルが150円になった。つまり昔は円の価値が相対的に高かったため、1円玉100個で1ドル紙幣と交換できたが、今では円の価値が下がった(安くなった)ため150個ないと1ドルと交換できない。これも言ってみれば通貨のコスパが悪くなったということである。
こうした数字と価値の関係が貨幣価値や経済活動にとどまっているうちはまだいい。しかし政治や外交に及ぶと話が変わる。全く仮の話だが、紛争地帯で過激組織が3人を捕虜にしたとする。「このままだと3人とも処刑するが、もしお前が誰か1人を銃殺すれば残り2人は助けてやる」と言われたらどうするだろうか。
悪いと思いながら何の恨みもない誰か1人を銃殺し、残りの2人を助けるだろうか。苦悩の果てにできないとなれば、目の前で3人とも処刑されることになる。しかし、捕虜は100人で、その中の誰か1人を銃殺すれば残り99人は助けてやると言われたらどうするだろうか。
10万人、100万人だったらどうだろう。1人を犠牲にすれば残りの膨大な人数が助かるとなれば、心の迷いも減ってくるのだろうか。これは数に従って人間1人の命の重さが軽くなっていくということでもある。
戦争の虚しさだ。国全体の何百万人、何千万人という国民の数と個人の命を天秤にかけるのが戦争だ。これは1円の価値が下がった先の例と同じ理屈だが、経済と政治ではその意味合いが全く異なってしまう。
私たちは日々の生活の中で常に経済的なコスパとタイパに縛られながら過ごしているが、この理屈が政治という大きな枠に取り込まれ、人間1人の命の価値まで下がらないよう切に願う。(有希聡佳)
2025年12月8日 第7330号
友の助言で嫌いな人を克服
高校時代のこと。同じクラスのA君のことが嫌いだった。今思えば、「そんなこともあったな」くらいの笑い話になるのだが、当時は思春期真っ只中。自分はまだまだ子どもだった。
ある話題で友達と話が盛り上がっているところに、A君が入ってくる。そして、違う話をしてきて、その話にみんながついていく。自分としてはその話には興味がなく、面白くなくなる。そんなことの繰り返しだった。
最初の頃は、A君が話に入ってきても、何ら抵抗は無かった。しかし、毎回毎回、A君が話に入ってくると、ほどなくして話題が変わってしまう。いつしか、A君が主役みたいな展開になっていく。
そんなことが繰り返されていくうちに、いつしか私はA君が話に入ってくると、その場を離れるようになっていった。「せっかく楽しく話をしているのに、なんなんだコイツは・・・」そんな思いが募っていった。
私と仲が良かったY君もまた、同じようにA君を嫌っていた。理由は私が思うところとほとんど一緒だった。よくY君と「アイツ、ムカつくよな」みたいなことを話していた。Y君との話が盛り上がり、いつしかA君のことを差別用語のあだ名で呼ぶようになっていった。もちろん本人の前では言わないが。
私とY君と、ともに仲の良いM君という友人がいた。ある時、私とY君とM君とで話をしていた時、A君の話題になった。私とY君が普段話しているように、A君をあだ名で称したら、M君は「お前ら、いくら嫌いだからって、それ(を言って)はダメだぞ」と注意された。
後日、私とM君が話をした時、M君が「何でそんなA君のことが嫌いなの?」と聞いてきた。私は諸々説明をしつつ、「自分がいるところに向こう(A君)が入ってくるのが嫌」というような話をした。するとM君は「う~ん・・・あのさ、試しに自分(=私)からA君に話しかけてみたら?(話題は)何でもいいから」と言ってきた。
私としては乗り気ではなかったが、M君は同じクラスになって以来、いろいろな面で助けてもらっていた、全面的に信頼のおける大切な友人なので、無下にはできないなと思い、タイミングを見てA君に話しかけてみようと思った。
ある時、A君が席に座って何か資料のようなものを見ていた。そこで私は「何を見てるの?」と声をかけた。するとA君は「大学の募集要項だよ」と答えた。私は「文系なの?理系なの?」と聞き、そこからいろいろと話をしていった。逆にA君から私に文系か理系かと聞かれ、「決めてないんだよ」と答えた。するとA君は「俺もずっと決まってなくて、最近やっと決めたんだ。いろいろ調べてみて、人の話を聞きながら決めていけば大丈夫だよ」みたいなことを言った。
不思議な感じだった。あれだけ嫌いなはずのA君と普通に話をしている自分がいる。嫌な感じもせず、むしろ(進路のことで)ためになることを言われた思いがした。それ以降、A君と話をすることに抵抗はなく、話の輪にA君が加わってきても嫌ではなくなり、自然に受け入れられるようになった。
そのことをM君に話すと、「人間って意外とそんなもんなんだよ。もし自分から話しかけてみて、それでも嫌ならそれはしょうがないかなって思っていたけど。でもまあよかった」と言ってくれた。何だかM君には当時から私の全てを見抜かれていたような気もする。
高校卒業後も、M君には折に触れていろいろなことを相談するなど、今も大切な存在だ。そのM君とは出会った時からずっと、年賀状のやり取りをしている。今年はどんな言葉を添えて出そうか、ゆっくり考えよう。(九夏三伏)
2025年12月1日 第7329号
『逓信美談集』が伝える奉仕の精神
逓信協会(現通信文化協会)が昭和11(1936)年9月に編んだ『逓信美談集』を繙く機会を得た。4月19日に開催された東海地方郵便局長会の新会員研修会を取材させていただいた際、吉良平治郎の美談を知ったのがきっかけだ。
同書には「責任 わが身を捨てて行嚢を保護した集配手」と題して、吉良の美談に1章が割かれている。
吉良は、北海道釧路市から約15㌔、北に進んだ海岸線にある昆布森郵便局の集配人を務めていた。大正11(1922)年1月19日夜、彼は釧路局を出発し、昆布森局へ向かったが、途中暴風雪に遭い力尽きた。しかし彼は、我が身を捨てて郵便物を守りぬいたのである。
「平治郎が、釧路から約2里をへだてた宿徳内に通ずる坂路にさしかかった頃には、暴風雪はいよいよ烈しくなり、行く手は見えず、荷物は重し、その上襲ってくる飢えと身を切るような寒さに耐えかねて、雪の中によろめき倒れた。しかし郵便物の大切であることを思うと、また勇気を振るって起き上り、わずかに寒さを防いでいたズックの外套を脱いで、郵便物がぬれぬように行嚢を包み、そうして帯を裂いてその上をしっかりとくくった。さらに唯一の力としてたずさえて来た竹の杖を傍に立て、先端に手拭を結んで目じるしとした。それから救助を求めようとして、坂下の人家のある方を指して、深い雪の中を歩き出した。しかしものの一町も進まないうちに、吹雪は全く彼を埋めてしまった」(『高等小学修身書』)
『逓信美談集』には逓信次官を務めていた富安謙次(風生)の序文とともに、15の美談が収められている。そのうちの2つを紹介したい。
1つは「決死の三集配手―死を賭して破橋を渡り責任を完うした津山局の集配手」だ。昭和9(1934)年9月21日早朝、室戸台風による豪雨で、岡山県津山市を流れる吉井川の氾濫警戒情報が出された。この時、津山駅には郵便行嚢が保管されていた。津山郵便局で集配を担当する三浦政治、福田進、秋久繁夫は即座にその行嚢の確保に動いた。津山駅に行くには、吉井川にかかる今津屋橋を渡らなければならなかったが、橋は今にも流されそうな危険な状況にあった。制止する消防隊員に3人は言った。
「公務です。どうしても行かねばならぬのです」
これを聞いた消防隊員は「私たちは郵便局の皆さんが、こんなにまで我々の郵便物を大切にして下さるとは、夢にも考えていませんでした。町の人が聞いたらどんなに感謝することでしょう。津山市民に代わって厚く御礼を申します。では、どうか渡って下さい。我々はここで神に念じてあなたたちが、無事対岸に着くのを見守っていますから」と答えた。
決死の覚悟で今津屋橋を渡り切り、津山駅にたどり着いた3人の努力により、郵便行嚢は無事に確保された。今津屋橋が流されたのはその直後のことだった。
もう1つは、愛媛県宇和島市の三浦半島先端部にある蒋渕郵便局(現宇和海郵便局)の集配人、浅田宇之吉と宮本作一の美談だ。
大正13(1924)年2月3日、浅田と宮本は集配船を漕ぎ、西方約28㌔の日振島に向かった。ところが、その日は天候が悪く、突風が横なぐりに吹きつけて船が転覆、2人は海中に投げ出されてしまった。
しかし、2人は船中に結びつけてあった行嚢を確認、服を脱ぎ棄てて、荒れ狂う波と戦いながら転覆した船をもとに戻した。だが、櫓も舵も流されてしまい、波に身を任せるしかなかった。約3時間後、幸い船は無人島の横島に漂着した。
浅田は郵便物を守るために海に飛び込んで上陸を試みた際、波に飲み込まれて命を失った。それでも宮本は諦めず、行嚢と洋服を結び付けて上陸に成功、郵便物を守り抜いた。
『逓信美談集』には、これ以外にも犠牲奉仕の精神を伝える美談が収められている。残念ながら同書は、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能だが、現物の入手は困難な状況にある。(酒呑童子)
2025年11月17日 第7327・7328合併号
日本語の難しさと繊細な表現
世界には実に様々な言語があり、一説には7000語以上あるそうだ。その一つ一つが独自の文化を持っており、独自の路線で進化してきた。当然、その文法的な仕組みによっても語彙の数からしても、表現できるニュアンスの数は千差万別である。文字数が少なければマスターしやすいし、多ければ使いこなすのが大変になる。
言うまでもなく、世界共通の言語は英語である。なぜ英語なのかといえば、かつての英国(大英帝国)が世界中に植民地を持ち、そこで流通していたことに端を発する。そして英国は経済的にも政治的にも先端を走っていて他国への影響力が強かったうえに、後に急激に発展したアメリカもそのまま英語を使ったためと言われている。
もう一つの理由は、英語は非常にシンプルで分かりやすいという特徴を持っている。アルファベットは26文字しかなく、基本的にこの26文字の組み合わせですべての単語を表現する。そして、その単語を並べてセンテンスを作ると意味が生じる。もちろん様々なルール(文法)がそこにはあるが、このシンプルさが世界を席巻する言語になった大きな理由である。
一方、私たちの言語はどうだろうか。日本語は世界的にも有数の難解な言語とされている。それは文字の種類だけでも漢字・ひらがな・カタカナの3種類あり、それらが組み合わさってセンテンスを作るからである。しかも常用漢字だけで2136文字もある。また数える単位も難しい。物なら「個」、紙なら「枚」、鉛筆なら「本」、本なら「冊」、動物なら「匹」や「頭」などとばらばらである。
一人称や二人称にしても、英語では自分はI、相手はYouしかなく、これは相手が目上でも目下でも関係なく使う。しかし、日本語だと自分のことは「私」「わたくし」「僕」「俺」「自分」など様々であり、相手のことは「あなた」「あんた」「ご自分」「お前」「〇〇さん」と呼び、自分と相手との立場によって変えなければならない。
会社の上司を間違えて「お前」と呼んでしまっては大変なことになる。他にも尊敬語、丁寧語、謙譲語などにも分岐しており、これらを上手く組み合わせないと流暢な日本語にならない。
これだけ日本語が複雑だと、確かに外国人にとってはマスターするのが大変であろう。その意味では日本語が世界の共通語になるとは到底思えない。その代わりこの複雑さが日本独自の繊細な表現を可能にした。人間の微妙な感情の襞を深く表現でき、喜怒哀楽を正確に描写できる。平安時代の文学を見ても、それは顕著である。こうして日本人は日本語によって独自の文化を築いてきたとも言える。
ただ、これだけ難しい日本語にも、ヨーロッパの言語と決定的に違う部分がある。それは日本語には「性」がないことだ。ドイツ語でもフランス語でも、またロシア語、スペイン語、イタリア語にしても名詞には必ず性があり、男性名詞か女性名詞に分けられる。中性名詞というどっちつかずの名詞まである。
名詞に性をつけることの習慣のない私たちにしてみれば、まずその単語が男なのか女なのか、中性なのかを覚えなければならない。ちなみに「日本」はドイツ語では中性名詞であり、フランス語では男性名詞である。おそらくヨーロッパの人たちは名詞を性別に分けることで微妙なニュアンスを表現しているのだろうが、そこは日本人には分からない部分でもある。
こうしてみると、言語というのはその国の歴史的背景を持ち、時代とともに変化しながら独自の文化を作ってきた。日本人は日本語の難しさと引き換えに、優美で繊細な表現方法を手に入れた。たとえ日本語は今後とも世界の共通語にはならなくても、日本人は日本語で作った考え方で、他の言語で作った思考回路の人々と上手く調和していかなければならない。
そう考えると、他国と協調していくには、まずお互いの言語を認め合うことが第一歩のように思う。(有希聡佳)
2025年11月10日 第7326号
郵便バイク電動化の広がりを
遠い昔、まだ郵政省の頃に郵便配達をしていたことがある。最初に採用された時は、原付免許しか持っておらず、ずっと自転車で配達をしていた。配達用の自転車はサドルが鬼のように固く、長時間配達をしていると臀部が痛くなる。雨天時に合羽を着ていても、体も郵便物も濡れる。配達に時間もかかってしまう。
また、郵便物の量が多い時など、自転車のスタンドを立てて止めても、壁に寄りかからせる形で止めても、重さで倒れてしまうことも幾度となくあった。毎日同じようなことの繰り返しで、心が折れそうになり、仕事が嫌にもなった。
3か月半ほどそんな日々が続いていた時、課長代理が私の所属していた班に来て「50㏄の借上車(=原付バイク)が1台入ったけど、〇〇くん(私の名前)原付の免許は持っていたよね?使う(乗る)?」と聞かれた。
確かに原付免許は持っていたが、ほぼ原付バイクに乗ったことが無く、あまりピンとこなかったし、乗り気でもなかった。しかし、班の人たちから「原付バイク使いなよ。絶対そのほうがいいよ」と勧められた。そうして次の日から、原付バイクで配達に出るようになった。
すると、なんということでしょう(大改造!!劇的ビフォーアフターのナレーション風に)!自転車とは比べ物にならないくらい速く、すいすいと進む。もちろん安全に気を付けながらの運転だが、水を得た魚のように生き生きと配達できるようになった。
その頃から配達だけでなく、大区分や道順組立も速くできるようになり、郵便物の量が多かろうが、雨が降ろうが、モチベーションもいい形で保てるようになり、順調に仕事ができるようになった。
そして翌年、合宿免許の形で二輪の免許を取得し、そこからは原付バイクに別れを告げて赤い機動車(郵便バイク)で配達することとなった。ここでまた、自転車から原付バイクになった時のように、原付バイクと郵便バイクとではまたパワーやスピードが違い、さらに仕事量をこなせるようになっていった。
郵便バイクは当時、ヤマハとホンダ、スズキの3種類があり、自分の勤めていた局ではヤマハとホンダが半々くらい、スズキがごく少数あった。
自分なりの印象としては、スズキは軽い乗り心地だが、積載量が多いと発進が遅くなる。ヤマハは無難ではあるが、うんと細い道などでハンドルが引っかかって通れないことがあった。ホンダは一番パワーがある感じで、幅の狭いギリギリの道も通れるハンドル幅だったが、停車している時のエンジン音がクツワムシの鳴き声をデカくした感じで少々うるさかった。
3種類とも乗って実際に配達をしてみた感じとしては、やはりホンダのバイクが色々な面で一番良かった。
さて、日本郵便では2019年度からホンダの電動バイクを導入し、全国で約2万3千台(2025年4月時点)を保有している。私は乗ったことが無いが、この電動バイクはなかなかの優れもののようだ。
音が静かなだけでなく、郵便配達では発進と停止を繰り返すため、モーターによる加速の力強さは大いに役立つ。ガソリンスタンドでの給油の必要もなくなり、自局の駐車場で充電できることに加え、バッテリーも休憩時間中に30~40%充電できるなど、業務にほとんど支障がない。また、低重心設計のため、積載量が多くて停車時に転倒することも少ないという。
災害発生時に、被災地においても支援物資を届けるなど、郵便バイクは大いに役立つ存在となる。電動バイクがさらに普及して、郵便局として配達業務のみならず、さらに地域社会の役に立っていってほしい。(九夏三伏)
2025年11月3日 第7325号
簡易保険の精神を振り返ろう
前島密翁の生誕190年を祝う会が9月27日に新潟県上越市で開催され、前島翁が郵便貯金を創設し、さらに簡易保険導入を目指していたことが称えられた(2面参照)。翁は自叙伝『鴻爪痕』で「私は是(郵便貯金)と同時に生命保険及び養老年金の事も、英国に倣って駅逓局で取扱おうと思って、その規則方法も草案した」と述べている。翁の構想は時期尚早として実現しなかったが、その構想は脈々と受け継がれ、簡易保険が大正5(1916)年10月1日に創業された。
この間、明治14(1881)年7月に日本初の近代的生命保険会社として明治生命保険株式会社が設立され、以後次々と新たな生命保険会社が誕生した。簡易保険創設の障害の1つとなったのが、こうした民間保険会社の反対だった。しかし、「すべての国民が安心して暮らせるように」という翁の思いを継いだ先人たちによって、その障害は乗り越えられた。
簡易保険創業50周年を迎えた昭和41(1966)年、長田裕二郵政事務次官は「明治初年、郵便の父前島密先生がすでにその構想を抱き、その後、明治末期から大正初年にかけて、藤沢利喜太郎、下村宏、松本烝治の諸先輩の熱意と努力が実を結び全国民待望の簡易保険が創始されたのであります」と述べた(『郵政』1966年9月号)。
数学者の藤沢は明治22(1889)年に『生命保険論』を著し、低所得者層が積極的に加入できるように保険金を少額に設定し、国庫負担を規定した公立の生命保険を創設する必要があると説いていた。
藤沢は、明治30(1897)年12月、逓信大臣野村靖から郵便機関を媒介とした郵便保険および郵便年金に関する調査研究を嘱託された。そして郵便年金と郵便生命保険の条項を組み入れた郵便貯金法案を提出する運びとなった。ところが、民間保険会社から強い反対意見が出されて、見送られたのだった。
その後、逓信官僚の下村宏が明治35年にベルギーを訪れ、保険事業についても調査して帰国している。第2次桂内閣は、明治43年7月、下村郵便貯金局長を委員長とする郵便保険年金調査委員会を設置し、調査を進めた。この時期、官業による簡易保険を主張していたのが東京帝国大学教授の松本烝治だった。彼は「簡易保険を国家の特権に属するものとして国家自らこれを営むべし」と説いた(『国家学会雑誌』1910年8月)。
明治44年3月には逓信省内に「郵便保険年金調査委員会」が設置され、さらに調査が進められた。当時、郵便生命保険、郵便年金制度の趣旨は「生涯その職務に勤勉であり、しかも老後の生計を立てる事が難しい者のために、あまねく各地に存在する郵便局を利用し、極めて簡便な方法で、確実に、安価な生命保険と年金を供給することにある」と説明されていた(『逓信協会雑誌』1911年3月)。
この逓信省の動きを後押ししたのが立憲同志会だった。同党は大正2(1913)年9月、「欧米各国で行われている小口保険制度は、中流以下の社会階級の経済状態を維持、改良する上において非常に有効な施設であり、これを国家事業として経営するのが適当と認める」との声明を出した。
そして大正3年4月に発足した大隈内閣は立憲同志会の声明の趣旨を尊重し、小口保険の官営を政府の重要施策に組み入れた。これに対して、民間保険会社は直ちに反対運動を展開した。
しかし、武富時敏逓信大臣は屈しなかった。渋谷作助は「当時民間の保険業者は、政府の民業圧迫なりとして猛然と阻止運動を試み、並々の大臣ならば恐らく腰砕けたであろうと思われる程であったが、君は少しもこれらの運動に動かされないで立案を完成」と書いている(『武富時敏』)。
こうして簡易生命保険法案は大正5年2月に成立した。前島翁の願いが継承された結果であろう。
しかし、郵政民営化によって営利が優先される中で、簡易保険の社会政策としての役割が見失われてしまったとの指摘もある。改めて、簡易保険誕生に尽力した先人たちの精神を振り返る必要があるように思う。(酒呑童子)
2025年10月20日 第7323・7324合併号
生活を守る郵便局のインフラ機能
先日、地方に取材に行った時の話である。取材先は駅からタクシーで15分ほど走った所にあり、車窓からは田んぼや畑しか見えない地方だった。都会育ちで、あまりこうした景色を見慣れておらず、田園風景に見とれていたが、いつともなく運転手との世間話になった。
彼が言うには「ここも含めて日本の国土面積の80%は田舎だが、そういった地方には金融機関が郵便局しかなくなった所が多い。それもだんだん減ってきて、困っている人が増えている」とのことだった。
郵政民営化については、その当時からユニバーサルサービスの存続を危惧する声が、特に地方から上がっていたことは確かである。「採算の取れない地方の郵便局は切り捨てられるのではないか」「郵便局でしかお金をおろせない地域はどうなるのか」など、国民だけでなく自民党内部からも声が上がった。至極もっともな不安である。
それでも当時の小泉内閣は〝郵政解散〟まで強行し、民営化反対議員を造反組として冷遇したあげく法案成立にこぎつけた。こうした政治の世界での話が、今になって地方のタクシー運転手のぼやきになるとは民営化直後は誰も思わなかったに違いない。
しかし現実を見てみると、確かに民営化後18年経って明らかに地方が不便になっているのは間違いないだろう。2025年度上半期だけを見ても、相当数の郵便局が廃止や一時閉鎖になっており、一時閉鎖のあとそのまま廃止になってしまう郵便局も多い。この減少傾向がこのまま続くと、いずれ地方に住んでいる人々の生活に影響が及ぶのではないかと危惧する。
郵便局はいうまでもなく、郵便・貯金・保険といった国民が生活するうえで非常に重要な生活インフラを請け負っている。言ってみれば手紙とお金と死後の保証である。いくらメールやLINEが全盛といっても、手紙や小包の発送・受領は生活に欠かせない。またいくらキャッシュレスの時代になったとはいえ、お金がなければ生活が成り立たない。また、万一死亡したり傷害を負った場合の生活保障に保険は欠かせない。
こうした最低限の生活インフラが、郵便局の廃止や閉鎖によって地方の方々がサービスを受けられなくなるとしたら、ますます地方切り捨てが促進されてしまうことになる。タクシーの運転手が言うように、日本は都会ばかりではない。むしろ大部分がいわゆる「地方」であり「田舎」である。
そこに住む人が郵便局のサービスを受けられない事態になったとしたら、安心して暮らせる状況ではなくなる。郵便局は地域のために「安心・安全に暮らせる」役割を果たしているにもかかわらわず、民営化によって地方にしわ寄せが行ってしまうのでは、郵政民営化とはいったい何だったのだろうかと思わざるを得なくなる。
郵政民営化が喧伝された当時は、民営化してもユニバーサルサービスは全国津々浦々で維持されると吹聴された。この根拠のない主張が結果的に郵政民営化を実現させたといっても過言ではない。しかし現実問題として、毎年郵便局が減少していく状況では、どこかで歯止めをかけないと生活インフラとしての郵便局の存続が困難になる。
地域に密着したエリアマネジメント郵便局や簡易郵便局が無くなった場合、他の何がその地域を支えるというのか。最後の拠り所とも言える郵便局すら撤退する地域では、当然ながら他の金融機関や保険会社はとっくに撤退している。
政治の世界で決められたことだが、やがてタクシー運転手の口からその弊害が漏れるようになった。彼の話を聞いているうちに、見ている田園風景がなんだか暗い景色に見えてきた。(有希聡佳)
2025年10月13日 第7322号
郵便局のいい話、もっと発信しよう!
先日開催された郵便教育セミナーの中で紹介された、「天国から届いたランドセル」というエピソードを、引用も交えて紹介する。すでに知っている人もいるかもしれないが・・・。
幼くして父親を亡くした女の子が小学校に入学する頃のこと。周りの子どもたちはみんな、親から買ってもらった赤いランドセルを背負って通学していた。しかし、その女の子の家庭は幼くして父親を亡くして、母子家庭だったので、ランドセルを買ってもらえるほどの余裕は無かった。
女の子は家に余裕がないことを分かっていたので、ランドセルが欲しくても母親にねだることはしなかった。母親を困らせてしまうと分かっていたから。
しかし、女の子は毎日友達と通学していると、どうしても赤いランドセルが欲しくてたまらなくなってしまう。通学路にあるお店のショーウインドーに飾られている、新品の赤いピカピカのランドセルをいつも眺めていた。
ある時、女の子は考えた。「お母さんに迷惑をかけるわけにはいかないけど、私も赤いランドセルがほしい。そうだ、お父さんにお願いしてみよう。お父さんならきっと、私の願いを叶えてくれるにちがいない」。そう思った女の子は、天国にいるお父さんに手紙を書くことにした。
まだ習いたてのひらがなで、女の子は一生懸命、お父さんに宛ててはがきを書いた。
―てんごくのおとうさんへ。わたしはことし、しょうがくせいになりました。べんきょうもがんばっています。いっぱいがんばっておかあさんをたすけようとおもいます。だから、おとうさんにおねがいがあります。わたしに赤いランドセルをください。いっぱい、いっぱいべんきょうして、がんばるから。いい子にしているから。おねがいします―
天国へのはがきなので、宛名は「てんごくのおとうさんへ」と書いて、ポストに投函した。そのはがきがポストから取集され、郵便局の職員がそのはがきを見つける。小さな女の子が一生懸命に天国のお父さんに宛てて書いた文面。
通常であれば、宛名不完全で差出人に還付されるが、このはがきを手にした職員は、仲間の職員に相談をする。
「このはがき、どうしたらいいかな。還付するのはあまりにも残酷だよね・・・」「それなら、僕らがこの女の子の天国のお父さんになろうよ」「どうやってお父さんになるの?」「仲間みんなにお願いして、ちょっとずつお金を出し合って、女の子にランドセルを買ってあげようよ」
そして、郵便局の職員のみんなで少しずつお金を出し合って、真っ赤なピカピカのランドセルを買うことに。ランドセルを小包に入れて、その郵便局で一番字が上手な人が代表してお父さんからのメッセージを書いて、女の子の家に送った。
―○○ちゃん(女の子の名前)、お手紙ありがとう。お父さん、とってもうれしかったよ。いつも頑張っているのを天国から見ているからね。これからも優しい人になってね。そして、お母さんを助けてあげようね。天国からいつも○○ちゃんのことを応援しているよ。ちょっと遅くなったけど、ランドセルを贈るね―
数日後、女の子のもとに、ランドセルとメッセージの入った小包が届いた。女の子は飛び跳ねるように喜び、「お父さんからランドセルもらった!」とはしゃいでいた。数年後、女の子はこの話を作文に書いて、全国のコンクールで入賞したという。
郵便局における心温まるエピソード、全国でたくさんあると思う。当事者にとってはそんな大したことではない、と思うかもしれないが、どんどん発信してほしい。郵便局の明るい未来のためにも。(九夏三伏)
2025年10月06日 第7321号
郵政民営化の検証を
小泉純一郎政権下で郵政民営化法が成立してから間もなく20年が経つ。
『日本経済新聞』の社説(9月27日)は「危機の今こそ20年前の原点に立ち戻るときだ」と書いている。「民営化は正しかった」という前提で主張を展開しているようだが、「郵便・金融一体」の収益構造を壊す分社化という制度設計自体が間違っていたとの意見もある。
現在も自民党内には再公営化を唱える議員もいるし、再公営化を主張する政党もある。
まず民営化によってもたらされた弊害についての議論が必要なのではなかろうか。
民営化後、過疎地など収益性の低い地方で郵便局の再編やサービス縮小が進められた結果、利用者の利便性は低下した。昨年10月には郵便料金が30年ぶりに大幅に値上げされた。土曜配達、24時間窓口などのサービスが廃止され、不便を感じている利用者も少なくない。また、コスト削減のために非正規雇用の増加や人員削減が進み、サービスの低下を招いているとの指摘もある。
鹿児島大学の吉田健一准教授は、郵政の不祥事について「郵政民営化自体に不祥事の原因があると思う」と述べ、人手不足が深刻化する中で、数字の達成を厳しく求められ、郵便局社員が非常に追い詰められていると指摘している(本誌6月2日号)。また、尾林芳匡弁護士は、民営化による経営効率化のしわ寄せが労働者にのしかかり、郵便局社員の過労死、過労自死を引き起こしていると指摘している。民営化法成立20年を迎える今、民営化について徹底した検証をすべきではないか。
小泉政権は財政投融資改革が必要だと訴えて、民営化を主張していた。しかし、大蔵省(現財務省)出身の松田学参議院議員は、すでに2001年度の財政投融資改革によって問題は解決していたので、民営化当時、財政投融資改革の必要はなかったと明かしている。
民営化をめぐっては、かんぽの宿のオリックス不動産への売却決定などの問題も起こった。
いったい誰のための郵政民営化だったのだろうか。アメリカの金融業界の意向に沿ったものだったのか。郵政民営化準備室は2004年4月から1年強の時間をかけて法案を作成したが、その間に米国保険業界関係者などと17回もの会合を重ねていたともいう。
民営化法には、日本郵政が保有している郵貯・簡保の株式を2017年までにすべて売却すると書き込まれた。そのため、ゆうちょ銀行とかんぽ生命が外資に買収される危機を警戒する声もあった。
2009年の総選挙で民主党政権が誕生し、同年12月に郵政株売却凍結法案が成立し、12年の民営化法改正で、17年までの株式売却が「できる限り早期に」と改められ、いったん買収の危機は去った。
6月に自民党、公明党、国民民主党の3党共同の議員立法で提出され、継続審議となっている民営化法改正案は、この「できる限り早期に」の文言を削除し、日本郵政に「当分の間」、ゆうちょ銀行・かんぽ生命の株式の1/3超の保有を義務付けるとしている。
20年前の想定を上回るスピードで人口減少が進み、少子高齢化、過疎化が深刻な問題となっている。過疎化が進む地域では支所・出張所、金融機関、医療機関などの撤退により、住民が生活に不可欠なサービスを受けられない状況に陥っている。まさに「地域の最後の砦」として、郵便局への期待が高まっているのだ。
このような状況への対応が急がれるからこそ、改正案は郵便局ネットワークを活用し、地域住民の生活を支援するために、公共サービスその他の地域住民が日常生活、社会生活を営む基盤となるサービスを、日本郵便の本来業務と位置づけた。
当初、自民党の改正案には3事業の一体性維持を目的とした「日本郵政と日本郵便の合併」が盛り込まれていたが、合併については、施行後2年を目途として、政府が積極的に検討することを附則に盛り込むことになった。
まもなく招集される臨時国会で、すみやかに改正案を成立させてほしい。(酒呑童子)
