コラム「春秋一話」

 年/月

2025年09月01日 第7316号

航空郵便開始から100年

 現在、ドローンによる郵便物輸送の実用化が進められているが、航空機による郵便物輸送がスタートしてからちょうど100年が経った。航空郵便は1925年4月20日、東京―大阪間と大阪―福岡間で試験的に開始された。
 この日、東京と大阪から赤い〒の記号を表示した航空機が飛び立った。逓信書記官を務めた加藤恵義氏は「帝国郵便史上特記すべき門出の一歩」と称えた(『逓信協会雑誌』1925年6月号)。
 世界最初の航空機による郵便物輸送は、その14年前の1911年2月。インド北部のアラハバードで開催された博覧会のイベントの一環として行われ、約6000通の手紙がアラハバードから、6マイル離れたナンニ駅まで輸送された。
 加藤恵義氏の報告によると、1925年4月20日11時前、大阪中央郵便局の配達員が、赤地に白色で「飛行郵便」と記した腕章をつけ、大阪―福岡便に搭載する郵便物(書状122通、はがき331通)を届け、航空機に搭載した。
 大阪―福岡間を担当したのは日本航空株式会社。同社は戦後に設立される日本航空とは無関係で、川西コンツェルンを築いた川西清兵衛が設立した。川西は毛織物や鉄道などの分野で事業を拡大し、航空事業にも参入。海軍機関大尉を退役した中島知久平が1917年に創設した飛行機研究所に参画したが、中島と意見が合わず、1923年に自ら日本航空を設立した。
 同社が使用した飛行機は「川西式7型第1号」。大阪から福岡まで飛行する阿部勉飛行士は、野本正一大阪逓信局長と堅く握手を交わして搭乗、11時10分に出発した。午後2時40分に福岡の入船町飛行場に到着。
 一方、東京―大阪間を担当したのは、朝日新聞社が1923年に設立した東西定期航空会だ。当時、新聞各社は速報性を競い、航空機利用で鎬を削っていた。航空評論家の鈴木五郎氏は、大阪朝日と大阪毎日は火花を散らす航空競争を展開し、少しでも早く号外を出すか、現場写真を載せるかで寸秒を争っていたと書いている(『ああヒコーキ野郎』。
 東西定期航空会が使用したのは、フランスのサルムソン式。新野百三郎が飛行士を務め、書状69通、はがき129通を搭載して午後0時5分に立川を出発し、午後2時59分に大阪の木津川飛行場に到着した。
 当時、日本航空、東西定期航空会以外に、タクシー会社経営者の井上長一が1922年に設立した日本航空輸送研究所があったが、いずれも小規模で営業成績も芳しくはなかった。
 そこで、わが国の民間航空輸送事業を統括する国策会社を設立すべきという機運が高まり、逓信省の主導で会社設立が進められることになった。すでに1924年11月に逓信省に航空局が設置され、民間航空事業を管掌していた。渋沢栄一や井上準之助などの大物実業家の協力を得て会社設立が進められ、1928年10月に日本航空輸送株式会社が発足した。東西定期航空会と日本航空も合流した。
 日本航空輸送による本格的な航空郵便事業が開始されたのは1929年4月1日のことだ。従来、航空郵便物の表示は「飛行」だったが、事業本格化に伴い「航空」と朱記するか、「航空」と記載した票符をつけることになった。また、通常の郵便料のほかに航空料金を徴収することになった。
 航空輸送される郵便物は、開始当初は年間8万6000通ほどだったが、1933年には年間約51万5000通まで増加した。こうした状況に対応し、同年に郵便専用飛行機も導入された。この間、1929年6月にルートが東京―大阪―福岡―蔚山―京城―大連に拡大されていた。戦争による混乱の時代を経て、戦後は1954年に日本航空が国際定期便を開始し、国際航空郵便輸送を始めた。
 航空郵便は遠隔地への高速輸送手段だけでなく、災害時の輸送手段として活用されてきた。そしていま、過疎地などでの輸送手段、道路が寸断された際の輸送手段としてドローンに注目が集まっている。新たな技術が郵便・物流事業の発展を支えることを期待したい。(酒呑童子)

2025年08月25日 第7315号

土地が人間を支配した歴史

 バブルが崩壊して早30年以上が経過した。バブル時代を象徴する最たるものは不動産である。言い換えれば土地であり、さらに平たく言えば地面である。この地面が投機の対象となって多くの投資家を翻弄し、一喜一憂させた挙句にバブル崩壊とともに一気に価値が下がり、やがて多数の路頭に迷う者を生み出した。
 考えてみれば、ただの地面が人間にこれだけ大きな影響を及ぼしたのは不思議である。少し土地の歴史を振り返ると、まず太古の昔は土地に対する価値観など皆無だったかも知れない。人々は基本的には狩猟採集生活をし、その土地で獲物や果実が取れなくなると勝手に他の場所に移住するだけなので、特定の場所に対する意識付けがなかっただろう。
 ところが米の栽培が始まり、中央集権国家ができると、一気に土地はただの地面ではなくなった。米が税金としての機能を持ち始めたからである。なるべく広い土地を持つ者が支配者になり、強大な権力を持つようになった。つまり富める者とそうでない者とにはっきり2分され、格差社会はここから始まった。
 国は土地からあがる税金を制度化し、確実に国家財政にするために「班田収授の法」を制定し、6歳以上の男女に「口分田(くぶんでん)」と称して農地を貸し与えた。そこで人々は米作りに励み、税金として米を国に納めた。
 ところが、この年貢が非常に厳しく、天候不良などで不作でもお構いなしに一定の取り立てをされるため、納税が厳しくなると土地を捨てて逃げ出す者が続出してしまった。その原因の一つが、いくら一生懸命働いても「公地公民制」のため、所詮土地は国の物であり、自分の物ではないところにあった。土地を捨てて逃げたところで、別の場所でひっそりと暮らせばいいのである。
 そこで国は考えた。農民が逃げないように、耕した土地は孫の代までの三代は所有するのを認めることにしたのだ。これは723年に制定された「三世一身の法」といい、これが土地を個人で所有する始まりである。
 しかし、三世代目(孫の世代)になると自分の代で私有が終わってしまうため、やはり納税が厳しいと逃げ出す者が続出した。そこで国はまた考えた。期限付きがダメなら、いっそのこと耕した土地はそのままその人にあげてしまうことにした。
 これは743年制定の「墾田永年私財法」といい、ここから土地の所有者が明確になった。つまり土地を開墾すればするだけその土地は自分のものとなるため、人々はせっせと耕し、より広大な土地を所有するようになった。
 やがて財力のある貴族や大規模な寺社が広大な土地を所有するようになり、これが「荘園」となった。しかし大規模な荘園は管理するのが難しく、他人に略奪される事件が多発したため、彼らは荘園を警護する警備員を雇うことにした。
 この警備員こそが、後の武士である。戦国時代になると、この武士たちが領土争いをはじめ、大規模な国盗り合戦になった。土地を治めることで権力を増大させ、日本全土を統一した者が日本の最高権力者となった。
 こうして振り返ってみると、ただの地面であるはずの土地が、領土や不動産などと名前を変えながら人間を支配し続け、昭和になってその価値が一気に膨らみ、一気にしぼんだ。米を作る場所となり、格差社会の原因となり、権力の象徴となり、資産価値となる土地の本当の姿はなんであろうか。
 一つ言えるのは、土地は時代とともにその意味合いを変えながら人間をコントロールしてきたことだ。そのために多くの命が犠牲になった時代もある。何も言わず、ただ地面にひろがっているだけの土の塊にそこまでの力があるとは不思議である。
 アスファルトを歩く自分の足元を何気なく見ながら、今はこの地面にどんな意味があるのだろうと思ってみた。(有希聡佳)

2025年08月11日 第7313・7314合併号

多様な配達・受取方法を

 ここ一年くらいの間に、宅配便で荷物が届くことが30回ほどあった。そのうち、再配達を依頼したことが20数回あった。
 ある時、帰宅すると、宅配便の不在通知が投函されていた。時間も遅かったので、あとで再配達受付のフリーダイヤルに電話しようと思っていた。
 入浴を済ませ、食事をしていた時、インターフォンが鳴った。誰だろうと思って応答すると「宅急便です」の声。玄関を開けると「先ほどの不在通知の荷物です」とのことで、「ご苦労様です」と言って受け取った。
 さて、このことをどう受け止めるか。配達員の善意・・・いや、そうではないと思う。
 私の父は生前、某運送会社で配達業務に携わっていたことがあった。父は帰宅後、仕事のことを自分からあまりしゃべることは無かったが、夏のお中元や冬のお歳暮シーズンは相当大変だったようで、かなり疲れた様子だったのを覚えている。
 父とは離れて暮らしていたが、帰省した際に、父が仕事を終えて帰宅。一杯やりながら、何気に仕事のことについて話をした際に、父が「参ったよ、2回も配達行ったのに留守でさ。また明日配達に行かなきゃ」というようなことを言っていた。
 受取人本人から再配達希望の連絡を受けていたわけではないが、自主的にもう一回その日のうちに、不在だったところへ配達に行き、配達完了できればもうけもの、不在であれば再度持ち戻る。要するに、その日のうちにできる限り荷物を配達し終えておきたい、ということだったのだ。
 配達を担当するエリアは決まっている。車での配達なので、再配達が無ければ、当日の朝に配達順をイメージして、さらには荷物の大小、重さ、種別なども考えて、車に荷物を積み込む。そこに、再配達希望の荷物があると、希望時間帯によってはポツンとその荷物だけイメージしたルートを大きく外れて配達に行かなければならないケースが往々にしてあるという。大幅な時間のロスにもなる。
 顧客の立場としては、例えば田舎から荷物を送るから、と連絡があった場合に、「夜6時以降なら家にいるよ」「平日は帰る時間が読めないから、土曜日だと大丈夫かな」など、送り主に対して荷物を受け取りやすい日時等を事前に伝え、送り主がそれに合わせて配達日時等を指定して差し出せば、急なアクシデントでもない限り、受け取る側はすんなり受け取れるだろう。
 現在、再配達削減の機運が高まる中、受取場所の指定をはじめとした多様な配達オプションの提供、配達前にSMSやメールで顧客に配達予定時刻を通知して必要に応じて配達日時を調整できるサービスの導入をはじめ、運送各社は様々な策を講じている。また、集合住宅でのオートロック解錠デバイスの活用や、置き配サービスの利用促進など、運送各社以外からも動きが出てきている。
 置き配については、玄関ドア横に荷物(段ボール箱)が漠然と置かれた光景を何度も見ているが、盗難のリスクに加え、猫やカラス、ネズミなどによる被害も心配なので、自分はあまり利用したいとは思わない。置き配バッグ等を使用すればまだマシなのかもしれないが・・・。
 生活スタイルは人それぞれで、家族がいれば、誰かが家にいて、配達に来た際に荷物を受け取れるだろう。それが一人暮らしだったり、介護が必要な家族と暮らしていたりすると、要介護者だけが家にいる状態では、インターフォンが鳴っても応答することもままならない。
 受取人の都合だけでなく、運送会社、送り主、関係各方面を巻き込んだ国民的議論で、より良い荷物の配達の仕方、受け取り方の選択肢が広がっていくことを願う。(九夏三伏)

2025年08月04日 第7312号

地域の祭りを支える郵便局長

 能登半島は昨年元旦の震災で甚大な被害を受け、今なお復興の途上にある。石川県能登町宇出津では地盤が沈下し、民家などに海水が流れ込む被害が続いた。しかし、その半年後、宇出津では伝統の「あばれ祭」が開催された。
 東日本大震災が発生した2011年にも、宮城県仙台市では7月に「東北六魂祭」(「東北絆まつり」)が開催され、青森ねぶた祭、秋田竿燈まつり、盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、福島わらじまつり、仙台七夕まつりが結集した。また、福島県相馬市、南相馬市では「相馬野馬追」が、青森県八戸市では「八戸三社大祭」が例年通り開催された。苦難の中にあるからこそ、地域の絆を固め、復興の歩みを後押しするために、敢えて祭りが開催されてきたのだ。
 ところが今、長年にわたって継続してきた各地の祭りが存続の危機にさらされている。2019年には、愛知県北設楽郡東栄町の「花祭」が休止となった。悪霊を払い除け、神人和合、五穀豊穣、無病息災を祈る目的で、鎌倉時代から伝承されてきた祭りだ。
 1000年以上続いてきた、岩手県奥州市水沢にある黒石寺の「蘇民祭」も、昨年その歴史に幕を下ろした。厳冬の真夜中、裸の男たちが「蘇民袋」(護符が入った麻袋)を奪い合い、五穀豊穣や無病息災を祈る祭りだ。存続できなくなった原因は、祭りを支えてきた黒石寺の檀家の高齢化だ。
 昨年、毎日新聞社が都道府県指定の無形民俗文化財を対象として実施したアンケート調査によると、現行の指定文化財制度が始まった1975年以降、無形民俗文化財の指定を解除したり、休止状態に陥っていたりするものが31県で計102件に上った。
 指定を解除していたのは4県で9件、休止状態に陥っているものは30県で93件だった。県別では、熊本(11件)、高知(8件)、福井(7件)、宮城・千葉・奈良・和歌山(各5件)などが多い。コロナ禍が引き金になってはいるが、根本的な原因は高齢化、若者人口の減少による担い手不足、資金不足などだ。
 一般社団法人マツリズムが2023年に実施した調査では、コロナ禍を経て、祭りへの参加意欲が全年代で低下していることも明らかになり、特に40代では2割が「コロナ以前よりも参加したくない」と回答している。
 その一方で、「祭りはなくなってはいけないものだと思いますか?」との問いに対し、「そう思う」「ややそう思う」と答えた人が合計74.0%となり、コロナ禍での前回調査(2021年)よりも3.0%増加している。
 祭りは、地域コミュニティの結束を強めるだけではなく、世代間交流を促進する。そして、地域の歴史・文化的価値の継承、地域の活性化など極めて重要な役割を担っている。
 祭りの衰退は地域の衰退に直結し、やがて日本の衰退を招くことになるのではなかろうか。
 行政も祭りの衰退に歯止めをかけようと動き始めた。例えば、茨城県は潮来市の「潮来祇園祭禮」など県内5つの祭りに補助金を交付すると決めた。
 こうした中で、地域の祭りを一貫して支えてきたのが郵便局長、郵便局社員だ。我が国の郵便創業期に、全国の郵便局網整備に協力したのが、住民から信頼されていた地域の名士であり、もともと彼らは地域の祭りや祭礼に深くかかわってきた。郵便局長は地域の伝統的な祭りの中心になるだけではなく、地域おこしのための新たな祭りの立ち上げなどでも貢献してきた。
 例えば、宮崎県西米良村にある村所郵便局の中武広幸前局長は、国の重要無形民俗文化財にも指定されている同地区の小川神楽の継承に力を尽くし、現在も神楽の指導に当たっている。
 郵政民営化後、状況は変わりつつあるが、現在も多くの郵便局長、郵便局が地域の祭りを支えている。日本郵政グループも、青森ねぶた祭・山形花笠まつり・徳島市阿波おどりに協賛し、共同参加している。
 祭りの維持は国家的な課題だ。地域を想い、祭りを支えてきた郵便局長、郵便局の活動はもっと評価されてしかるべきだろう。(酒呑童子)

2025年07月28日 第7311号

宇宙への想い~果てはあるか~

 天気の良い日に夜空を見上げると、無数の星々が散らばっているのが見える。ある人はこれを宝石箱と表現し、ある人は無限の宇宙と表現する。確かに夜空にはロマンがあふれている。
 平安時代の最大の権力者である藤原道長は、月を見て「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と歌ったが、彼が見た満月と現代の私たちが見る満月は全く同じである。
 千年以上前の人の目に映った景色と全く同じものを見ることができるのは、おそらく天体以外にないだろうと思える。山や川は年月とともに少しずつ形を変える。
 そう考えると天体に一層のロマンを感じるが、我々現代人は道長の時代にはなかった考えを同時に持つ。それは「宇宙には果てがあるのだろうか」という疑問である。
 宇宙が広大無辺に広がっていて、元はビッグバンから始まったことなどは、比較的近代になって確立した理論である。平安時代にはこうした考えは当然ながらなかった。筆者も宇宙に果てがあるのかないのか時々想像を巡らせるが、現代の天文学では「分からない」というのが結論になっている。
 なぜなら宇宙は約138億年前のビッグバンから始まったとされているが、観測可能な宇宙はそれよりもはるかに遠いところにあるからである。宇宙が138億年前に始まったのなら、138億光年先が宇宙の果てになるはずであり、そこから先は無いはずである。
 しかし実際のところ、約465億光年先まで観測できているという。想像を絶するほど遠いところまで観測できるが、これは宇宙が少なくてもそこまでは膨張をしている証拠だ。ただ、その膨張した先がどこにあるのかが分からないため、宇宙の果ては「分からない」のである。
 どこまで宇宙空間が広がっているのか現代科学では観測不能であり、あとは人間の想像力に任せるしかない。ある考えでは宇宙空間は重力によって少しずつ曲がっており、すべてを見ることのできる望遠鏡をのぞいたとしたら、視界の先が少しずつ曲がってやがて大きくUターンし、最後には自分の後頭部が見えるなどとする説もある。
 ビッグバン理論にしても確たる証拠はなく、「時間と共に宇宙が拡大しているなら、逆に時間をさかのぼる程宇宙は小さいはずだ」との理屈に立脚しているにすぎない。
 そして計算上138億年さかのぼると宇宙は極小の特異点になり、エネルギーが充満した一点に集約する。それがなにかの弾みで一気に爆発したのがビッグバンだと考える。
 宇宙は文字通り人間の想像を超えた広さであり、現代の科学では分からないことがあまりに多い。宇宙空間の中に地球と同じような文明を持った惑星があるのかも分からないし、恐竜を絶滅させた規模の隕石がいつまた地球に落ちてくるかも分かっていない。
 ブラックホールのような特殊な状態がなぜできて、その中がどうなっているのかもまだ研究途上である。つまり私たちは空を見上げた時に、その美しさに感嘆することしかできなく、その実態は想像するしかないのである。
 人類は今までに少しでも遠くまで見えるように様々な工夫をこらし、高性能な望遠鏡を開発してきた。「ハッブル宇宙望遠鏡」の開発で一気にはるかかなたまで見えるようになり、最近では「ジェームズウェッブ望遠鏡」というのが開発され、従来より格段に遠くまで鮮明に見えるようになった。
 ただそれでも宇宙の大きさを確かめるにはまだまだ不十分であり、依然として宇宙の全体像を把握できていない。おそらくこれから数十年、数百年経っても宇宙の実態を把握することは不可能であろう。それだけ捉えどころがないほど広いのである。
 平安時代に藤原道長が月を見て雅な歌を作ったが、私たちも宇宙のことが分からないのは同じである。そうであれば我々も空を見上げた時は余計なことは考えず、いっそ道長と同様にその美しさをただ風流に楽しめばいいのかもしれない。(有希聡佳)

2025年07月14日 第7309・7310合併号

いろいろなもので〝涼〟を

 気象庁は6月8日に沖縄地方で、6月19日に奄美地方で、6月27日に九州南部地方、九州北部地方、四国地方、中国地方、近畿地方で梅雨が明けたとみられると発表した。沖縄地方と奄美地方を除いては、記録的に早い梅雨明けとなる。7月に入ってからは東海地方で7月4日に梅雨が明けたとみられると発表した。
 梅雨明けの定義はというと、くもりや雨の日が多い梅雨の天候から、晴れて暑い夏の天候へと季節が変わる頃を梅雨明けと呼ぶ。気象庁では、それまでの天候とその先一週間の予報をもとに、天候が変わり始めたと判断した場合に、〇月△日頃、梅雨明けしたとみられる、と発表している(気象庁のホームページより引用)。
 梅雨明けが発表された上述の地方以外にも、6月下旬以降、関東地方などでも晴れて暑い日が続いたが、不安定な天候が続くとのことで、梅雨明けの発表は見送られている(7月9日時点)。
 なお近年、気象庁では梅雨入りと梅雨明けの時期を総合的に検討して、9月初旬に確定している。ちなみに今年の梅雨入りは、九州南部でかなり早いほかは、北陸と東北北部で平年並み、奄美・九州北部・四国・中国・近畿・東海・関東甲信・東北南部で遅い、沖縄でかなり遅い梅雨入りとなっている。
 過去の梅雨明けの確定値のデータを見てみると、沖縄と奄美を除いては、九州南部で1955年6月24日、東海で1963年6月22日、関東甲信で2018年6月29日に梅雨明けした記録が残っている。もし今年、すでに梅雨明けした地方がそのまま梅雨明けが確定ということになれば、記録的に早い梅雨明けとなる。
 気象庁が7月4日に発表した1か月予報によると、北日本、東日本、西日本は夏の太平洋高気圧に覆われる日が多く、厳しい暑さとなる日もあるとのこと。梅雨明けが早ければそれだけ、長く暑い夏となるだろう。
 近年の夏はかなり厳しい暑さに見舞われることが多くなっている。人々は暑い時、風や冷気を浴びて涼む、あるいは冷たい物を食べる・飲む、いろいろな方法で〝涼〟をとるが、ふと「耳」から涼を感じられないか考えてみた。
 夏をイメージした楽曲は今も昔も数多くあるが、その中でも、歌詞やメロディーから涼しさが感じられる、自分が思い浮かんだ楽曲をいくつか挙げてみよう。
 ▽「アメリカン・フィーリング」(サーカス、1978年)・・・日本航空のCMソング。サビの「今私は コバルトの風」のフレーズが涼しさを醸し出す。歌い出しの「あなたからのエアメール」も印象的。
 ▽「小麦色のマーメイド」(松田聖子、1982年)・・・全体的にゆったりとしたテンポ。冒頭の歌詞「涼しげなデッキ・チェアー」が涼しさを感じさせる。
 ▽「少年時代」(井上陽水、1990年)・・・夏が過ぎてから季節がめぐり、また夏を過ぎた頃に最後は戻る歌詞で、井上陽水を代表するナンバー。「風あざみ」という歌詞が出てくるが、これは井上陽水による造語とのこと。
 ▽「夏の日の1993」(class、1993年)・・・夏の終わりのどこか感傷的な歌詞で、ハーモニーが心地よい。なお、この楽曲がヒットした1993年は記録的な冷夏だった。
 ▽「夏色」(ゆず、1998年)・・・アップテンポで疾走感あふれる、ノスタルジックなナンバー。自転車で長い下り坂を下っていく内容の歌詞が、気持ちよい風を感じさせる。
 ▽「わたがし」(backnumber、2012年)・・・ミディアムテンポで、初めてのデートでの夏祭り最後の日の想いを歌っている。
 これからますます暑さが厳しくなると思われるので、音楽も含めて、皆さんそれぞれにいろいろなもので〝涼〟を感じながら、暑い夏を元気に乗り切ってほしい。(九夏三伏)

2025年07月07日 第7308号

米国の生保会社から始まったラジオ体操

 100年前の1925(大正14)年7月、『逓信協会雑誌』に「放送無線による保険事業宣伝」と題する記事が掲載された。この記事が日本のラジオ体操スタートのきっかけとなった。
 執筆したのは、当時逓信省簡易保険局書記官を務めていた猪熊貞治氏だ。1923年5月、猪熊氏は監督課長として欧米の保険事業に関する調査を命じられた。彼がサンフランシスコの電話会社を訪れると、交換手が休憩時間を利用し、レコードに合わせてダンスを行う光景が飛び込んできた。これを見た猪熊氏は、休憩時間の有効な過ごし方に関心を強めた。
 その後、猪熊氏はニューヨークに本社を構えるメトロポリタン生命保険会社を視察し、同社が保険加入者の健康増進や衛生思想の啓蒙を図るため、ラジオ体操を計画していることを知った。猪熊氏は具体的な計画ができたら資料を送ってくれるように依頼し、1924年春に帰国した。
 1年を経た1925年3月、メトロポリタン生命保険はラジオ体操を開始した。本社27階の放送施設から、日曜祝日を除く毎朝、ニューヨーク、ワシントン、ボストンの放送局を中継して放送された。猪熊氏が同社から入手した資料をもとに書いたのが冒頭に紹介した「放送無線による保険事業宣伝」だ。猪熊氏は「国民の健康保持に基づく社会的幸福増進事業の一新方法として、放送無線電話を利用するにいたったことは、生命保険会社の事業史上に特筆さるべき事柄の一つ」と称え、ラジオ体操が被保険者の死亡率減少にどう影響するかが興味深いところだと書いた。
 一方、簡易保険局規画課長の進藤誠一氏は1925年4月に、猪熊氏と同様に欧米保険事業の視察・研究のために派遣された。同年夏、進藤氏はメトロポリタン生命保険を訪れ、ラジオ体操事業の実施状況を見学し、日本でもラジオ体操を開始すべきだと考えるようになった。
 1926年春に帰国した進藤氏は、帝国生命保険から「被保険者のために何か保健事業を行いたい」と相談され、ラジオ体操の導入を提言した。しかし、日本のラジオ放送は1925年3月に開始されていたものの、アメリカのようには普及しておらず、時期尚早だった。しかし、進藤氏はラジオ体操実現の夢を捨てず、1927年8月、「健康体操放送を開始せよ」を『逓信協会雑誌』に書いた。進藤氏は、民衆的運動は老若男女を問わず、誰にでもでき、屋外でも屋内でもでき、多少趣味的なものであることが条件だと説き「今の日本には民衆化された運動方法が欠けている」と指摘した。そして、保健当局と日本放送協会に対して、我が国の運動民衆化のためにラジオ体操を実施するよう訴えたのである。
 進藤氏の記事が掲載されたのと同時期、簡易保険局は翌1928年の天皇陛下御即位の御大礼を記念して行うべき国民的事業を検討するための会議を開いた。猪熊氏はこの会議でラジオ体操の実施を提案した。
 簡易保険局長の田辺隆二氏は、全国民が一斉に体操を行うチェコスロバキアの「ソコール運動」を知り、我が国でも国民的運動が必要だと考えていたので、猪熊氏の提案に賛同した。こうして御大典記念事業の一環としてラジオ体操を開始することが決定した。
 猪熊氏と進藤氏が、保険加入者の健康増進を強く意識してアメリカに渡り、ラジオ体操の意義をいち早く理解したからこそ、我が国のラジオ体操はラジオの普及に合わせて早いスタートを切ることができた。
 猪熊氏がメトロポリタンのラジオ体操を紹介してから100年後の今年、『ニューヨーク・タイムズ』のタリア・ミンスバーグ記者は「アメリカ人は間違ったフィットネスを実践しているのか?」(1月21日)と題して、車に乗って有料のジムに通うアメリカ人の矛盾を突いた。そして、「多くの国では、運動は日常生活に深く根付いている」と指摘し、日本のラジオ体操を紹介したのである。
 メトロポリタンのラジオ体操はわずか10年で中断したが、ラジオ体操は日本で花開き、国民文化として定着し、いまや世界が注目するところとなっている。(酒呑童子)

2025年06月30日 第7307号

寅さんと手紙~素直な思いの伝え方~

 日本映画の中でもとりわけ人気のある「男はつらいよ」は誰でも一度や二度は見たことがあるだろう。国民的映画といっても過言ではないと思う。元々はテレビドラマとして放映されていたが、最終回で主人公の車寅次郎(通称「寅さん」)が奄美大島でハブに噛まれて死んでしまう筋書きにしたところ、テレビ局に猛烈な抗議の電話が鳴り響き、慌てた山田洋二監督が映画版として寅さんを復活させたのが始まりで、第1作は1969年に公開された。
 この映画は人情の中にペーソスが含まれ、必ず失恋する寅さんの寂しさも相まって大変な人気映画になった。ところが不思議なことに、映画にはすべての作品に必ず「手紙」が登場する。いろいろな場面で手紙やはがき、書き置き、メモなどが登場し、作品にそれらが全く出てこないことは一度もないのだ。中には郵便局員が登場する回もある。
 公開当初は夏のお盆の時期と年末年始の年2回上映されていたこともあり、お盆バージョンでは暑中見舞い、年末年始バージョンでは年賀状が頻繁に登場する。しかも寅さんが旅先から送ったはがきを、寅さんの声がナレーションとなって読み上げながらエンディングを迎えるという、極めて重要なシーンで使われている。
 内容も不器用ながら誠実な気持ちがこもっており、普段は素直な気持ちを伝えられず、トラブルばかり起こす寅さんの率直な気持ちが綴られた内容なのである。そう思うと、下手な字でも一生懸命手紙を書いている寅さんの姿が目に浮かぶ。つまりこの映画は面と向かえば言えないことも、手紙やはがきなら素直に気持ちを伝えられることを視聴者に訴えているのではないかと思う。
 令和の現代では、思いを伝える手段はほぼ100%メールやLINEであり、誰が入力しても同じ活字で送信される。そこには寅さん映画が全盛だった昭和時代の手書きの温かさはない。要件は伝わるが気持ちが伝わらないと言っても過言ではないかもしれない。
 デジタル全盛の現代では仕方ないのかもしれないが、だからといって日本人が寅さんが持っていた心の温かさを失ったとは考えられないし、それを伝える気持ちがないとも思えない。つまりは自分の思いを下手でもいいから手で書いて、相手に送る喜びや楽しさを現代の人々が再認識すれば、手紙文化は決して消滅することはないのではないか。
 幸い日本人は昔が好きである。「古き良き時代」としてノスタルジックな感情に浸ることが好きな国民である。そうとなれば、昭和を代表する「男はつらいよ」という映画で演出される手紙の良さが、もっと社会全般に浸透することで、手紙を書く人口も増えるのではないかと期待できる。
 これまで寅さん映画はコメディ映画とかドタバタ映画と言われてきたが、手紙やはがき、電報、公衆電話などが当たり前に使われている昭和の映画としてみれば、現代の若者も興味を惹かれるのではないだろうか。
 葛飾区の京成柴又駅の近くには「寅さん記念館」があり、劇中で登場する小道具のひとつとして寅さんが書いた手紙も展示され、連日多くの来場者がある。テレビでも頻繁に再放送され、いまだに高い視聴率を得ている。
 そこで昨今の手紙減少を挽回する一つの案として、日本郵便が「寅さん記念館」と提携し、手紙の良さをアピールする機会を作ったらどうだろうかと思う。
 過去に寅さんのオリジナルフレーム切手を発行したことはあるが、さらに日本郵便がバックアップして著名人を寅さん博物館に呼び、定期的に手紙文化を伝える講演会を開くとか、手紙の書き方教室を寅さん記念館で開催するとか、そういった一風変わったイベントを単発ではなく繰り返しやってみるのも価値があるように思う。
 便箋に手紙を自分の手で書くことで、昭和にタイムスリップする体験は、案外中学生や高校生に受けるかもしれない。要件を伝えるというより気持ちを伝える楽しさを知ってもらえると思う。
 確かにデジタル全盛の現状では手紙文化は廃れていく一方であろう。しかし寅さんの手紙好きを起点にして、何かしらの対策を打てば、まだまだ現代の若者にも手紙が受け入れられると思うし、そう信じたい。(有希聡佳)

2025年06月16日 第7305・7306合併号

複雑な郵便局~利用者目線での改善も

 2007(平成19)年10月1日に郵政民営化がスタートし、郵便・貯金・保険の三事業が分割され、それぞれの会社が引き継ぐことになった。要するに郵便局という大きな傘の下で三事業を一体で行っていたものが分断された。各事業の間に垣根ができて相互に連携ができなくなった。
 この民営分社化によって生じた大きな問題は、利用客の利便性が格段に悪化したことだ。特にいわゆる本局と呼ばれる単独マネジメント局の仕組みが複雑怪奇といっていいほどの状態となり、利用者が困惑する場面が多々生じることになった。
 まずゆうちょ銀行が併設になった局と非併設の局とが約半数ずつに分かれた。そして、ゆうちょ銀行併設局の窓口では郵便と保険の二事業を、非併設局では郵便・貯金・保険の三事業を担当することになった。
 そのためゆうちょを扱わない郵便局は貯金のことを質問されても全く回答することができず、ゆうちょ銀行を案内するしか方法がなくなった。お客さまからは当然、「あそこの局なら教えてくれるのに、なんでこの局では分からないのか」とクレームになる。
 また、郵便窓口の営業日もまちまちであり、例えば江東区と足立区、葛飾区を見ると、葛西郵便局は平日のほか土日祝日も営業しており、365日無休で営業している。しかし、深川郵便局や葛飾郵便局、足立郵便局は平日のほか土曜日は営業するが日祝日は営業がない。さらに、葛飾新宿郵便局や足立北郵便局、足立西郵便局は土曜日の営業もなく平日しか営業がない。同じ規模の本局でありながらこれだけ取り扱い時間がバラバラだと、お客からは利用しづらくて仕方ないとの声があがる。
 さらに分かりづらいのは郵便関係の業務の切り分けで、商品の販売や差し出しは窓口営業部の「郵便窓口」で対応しているものの、不在票を持ってきてゆうパックなどを引き取る場合は郵便部の「ゆうゆう窓口」で対応していることだ。
 ところがお客はそんな仕組みを知らず、ほとんどが郵便窓口に来て不在票を提示し受け取ろうとする。しかし、端末システムの操作権限上、郵便窓口で対応することができないため、ゆうゆう窓口に行くように案内すると、「たらい回しにするのか」とクレームになる。
 その一方、郵便局によっては郵便窓口で受け取りをする仕組みになっている局もあり、分かりづらさに輪をかけている。
 また、ゆうゆう窓口について言えば、土日や祝日など郵便窓口が開いていない日や時間帯は商品の販売やゆうパックなどの引き受けも行っている。そのためお客からすれば当然いつもそれらに対応してくれるものと思い込むが、実は平日はその業務は行っておらず、平日にゆうゆう窓口で郵便物などを差し出そうとすると、「隣の郵便窓口に行ってください」と言われる。
 お客からすれば「この前は対応してくれたではないか」となり、さんざん順番を待った挙句に言われれば余計怒ってしまう。
 これだけややこしいと、常連客以外はいつどこの郵便局のどの窓口で何を扱っているかがよく分からず、郵便局の窓口ロビーでウロウロすることになる。これでは利用する側も不便だし、クレーム対応する窓口担当者も精神的に疲弊してしまう。
 なぜこれだけ複雑に入り組んだ仕組みになったのか。郵便局を利用する人たちの利便性まで損なわれたのでは、「郵政民営化で不便になった」としか国民に認識されない。郵政関連法案の改正が議論されている中、組織的な改革と同時に、現場レベルの改革も必要だと思う。
 単独マネジメント局は業務内容と営業時間を全国一律にしてスリム化すれば、無駄に窓口の行列に並ぶことも文句に対応する社員の労力もなくなり、かなりの効率化を図れるのではないだろうか。民営化で様々な問題が噴出したが、利用者目線からのサービス向上も求められるだろう。(有希聡佳)

2025年06月09日 第7304号

猛暑で変わるさまざまな定番

 夏といえば「花火」「夏祭り」「浴衣」「セミ」「かき氷」「スイカ」「風鈴」などをはじめ、いろいろな「夏の風物詩」と呼ばれるものがある。近年の夏の猛暑の影響で、それらにも変化が起こっている。
 花火を見てみると、東京・荒川の河川敷を会場に、毎年7月に開催されてきた「足立の花火」が、雷やゲリラ豪雨等の天候リスクや熱中症対策の観点から、5月開催へと変更された。なお、5月31日に開催予定だった足立の花火は強風の影響で中止となった。落雷の恐れから中止となった昨年に続いて、2年連続で中止となった。
 山形県酒田市の最上川河川敷で毎年8月第一土曜日に開催されてきた「酒田の花火」も、令和7、8年度は9月の第二土曜日の開催となった。
 栃木県小山市で毎年7月の最終日曜日に開催されてきた「小山の花火」も、熱中症等のリスクやゲリラ豪雨等の悪天候における避難時の安全確保の観点等から、令和7年度は9月23日に開催し、令和8年度以降は10月の第1土曜日の開催となった。
 花火大会も含めた祭りにも変化が。熊本県菊池市の「菊池白龍まつり」は、参加者・来場者に快適な環境で祭りを楽しんでもらうため、令和6年から開催日を10月に変更している。
 福島県の相馬地方で3日間にわたって行われる「相馬野馬追」は、これまで毎年7月最終土日月曜日に開催されてきたが、温暖化による馬や人への影響を考慮して、令和6年度以降、開催日程が5月最終土日月曜日に変更となった。
 他にも全国各地、これまで長きにわたって行われてきた「夏の定番」のイベントが、別の時季に開催されることになったところがある。開催時期の変更に反対する人もいるだろうが、この先もこうした動きは出てくると思われる。
 そうした中、夏の高校野球(全国高等学校野球選手権大会)についての議論が毎年のように巻き起こっている。大会運営で課題となるのがやはり球児たちの安全、近年の猛暑への対策だ。
 2023年には試合中に10分間の休憩を挟む「クーリングタイム」が初めて実施されたが、球児の中には「体が冷えてしまい、動きも悪くなり、ケガのリスクもある。普段から暑い中で練習をしているので必要ない」といった声もある。さらに、クーリングタイムの前後で、それまで好投していた投手がコントロールを乱し、試合の流れが変わってしまう、あるいは野手が守備や走塁の場面で足がつってしまい、交代を余儀なくされるというケースも見られる。選手たちの安全面を含め、このクーリングタイムについては、その時間内の過ごし方、さらには制度そのものも含め、考えていく必要がありそうだ。
 そして、昨年の夏の高校野球では、第1日から第3日までの3試合日で、午前・夕方の2部制が導入された。気温の高い昼間に試合を行わず、朝(午前)と夕方以降の時間帯に分けて試合を行う、というものだ。今夏の大会では、大会初日から第6日目(1回戦全試合と2回戦の2試合)までは午前・夕方の2部制で試合が行われる。
 また、猛暑対策だけでなく、選手の安全面等も考えて、タイブレーク制度(試合が9回終了時点で同点の場合、10回以降は無死1・2塁の場面から開始する)が導入され、これまた議論を呼んでいる。さらには甲子園ではなく、大阪ドームなどのドーム球場で開催する案や、試合を9回までではなく7回までにする「7回制」の案も出ている。
 いずれにせよ、簡単に結論付けられるものではないが、一度新たに導入した制度を撤回して見直すこともありだと思う。今夏の大会も含め、今後どのように変わっていくのか、見守っていきたい。(九夏三伏)

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