コラム「春秋一話」

 年/月

2025年11月3日 第7325号

簡易保険の精神を振り返ろう

 前島密翁の生誕190年を祝う会が9月27日に新潟県上越市で開催され、前島翁が郵便貯金を創設し、さらに簡易保険導入を目指していたことが称えられた(2面参照)。翁は自叙伝『鴻爪痕』で「私は是(郵便貯金)と同時に生命保険及び養老年金の事も、英国に倣って駅逓局で取扱おうと思って、その規則方法も草案した」と述べている。翁の構想は時期尚早として実現しなかったが、その構想は脈々と受け継がれ、簡易保険が大正5(1916)年10月1日に創業された。
 この間、明治14(1881)年7月に日本初の近代的生命保険会社として明治生命保険株式会社が設立され、以後次々と新たな生命保険会社が誕生した。簡易保険創設の障害の1つとなったのが、こうした民間保険会社の反対だった。しかし、「すべての国民が安心して暮らせるように」という翁の思いを継いだ先人たちによって、その障害は乗り越えられた。
 簡易保険創業50周年を迎えた昭和41(1966)年、長田裕二郵政事務次官は「明治初年、郵便の父前島密先生がすでにその構想を抱き、その後、明治末期から大正初年にかけて、藤沢利喜太郎、下村宏、松本烝治の諸先輩の熱意と努力が実を結び全国民待望の簡易保険が創始されたのであります」と述べた(『郵政』1966年9月号)。
 数学者の藤沢は明治22(1889)年に『生命保険論』を著し、低所得者層が積極的に加入できるように保険金を少額に設定し、国庫負担を規定した公立の生命保険を創設する必要があると説いていた。
 藤沢は、明治30(1897)年12月、逓信大臣野村靖から郵便機関を媒介とした郵便保険および郵便年金に関する調査研究を嘱託された。そして郵便年金と郵便生命保険の条項を組み入れた郵便貯金法案を提出する運びとなった。ところが、民間保険会社から強い反対意見が出されて、見送られたのだった。
 その後、逓信官僚の下村宏が明治35年にベルギーを訪れ、保険事業についても調査して帰国している。第2次桂内閣は、明治43年7月、下村郵便貯金局長を委員長とする郵便保険年金調査委員会を設置し、調査を進めた。この時期、官業による簡易保険を主張していたのが東京帝国大学教授の松本烝治だった。彼は「簡易保険を国家の特権に属するものとして国家自らこれを営むべし」と説いた(『国家学会雑誌』1910年8月)。
 明治44年3月には逓信省内に「郵便保険年金調査委員会」が設置され、さらに調査が進められた。当時、郵便生命保険、郵便年金制度の趣旨は「生涯その職務に勤勉であり、しかも老後の生計を立てる事が難しい者のために、あまねく各地に存在する郵便局を利用し、極めて簡便な方法で、確実に、安価な生命保険と年金を供給することにある」と説明されていた(『逓信協会雑誌』1911年3月)。
 この逓信省の動きを後押ししたのが立憲同志会だった。同党は大正2(1913)年9月、「欧米各国で行われている小口保険制度は、中流以下の社会階級の経済状態を維持、改良する上において非常に有効な施設であり、これを国家事業として経営するのが適当と認める」との声明を出した。
 そして大正3年4月に発足した大隈内閣は立憲同志会の声明の趣旨を尊重し、小口保険の官営を政府の重要施策に組み入れた。これに対して、民間保険会社は直ちに反対運動を展開した。
 しかし、武富時敏逓信大臣は屈しなかった。渋谷作助は「当時民間の保険業者は、政府の民業圧迫なりとして猛然と阻止運動を試み、並々の大臣ならば恐らく腰砕けたであろうと思われる程であったが、君は少しもこれらの運動に動かされないで立案を完成」と書いている(『武富時敏』)。
 こうして簡易生命保険法案は大正5年2月に成立した。前島翁の願いが継承された結果であろう。
 しかし、郵政民営化によって営利が優先される中で、簡易保険の社会政策としての役割が見失われてしまったとの指摘もある。改めて、簡易保険誕生に尽力した先人たちの精神を振り返る必要があるように思う。(酒呑童子)

2025年10月20日 第7323・7324合併号

生活を守る郵便局のインフラ機能

 先日、地方に取材に行った時の話である。取材先は駅からタクシーで15分ほど走った所にあり、車窓からは田んぼや畑しか見えない地方だった。都会育ちで、あまりこうした景色を見慣れておらず、田園風景に見とれていたが、いつともなく運転手との世間話になった。
 彼が言うには「ここも含めて日本の国土面積の80%は田舎だが、そういった地方には金融機関が郵便局しかなくなった所が多い。それもだんだん減ってきて、困っている人が増えている」とのことだった。
 郵政民営化については、その当時からユニバーサルサービスの存続を危惧する声が、特に地方から上がっていたことは確かである。「採算の取れない地方の郵便局は切り捨てられるのではないか」「郵便局でしかお金をおろせない地域はどうなるのか」など、国民だけでなく自民党内部からも声が上がった。至極もっともな不安である。
 それでも当時の小泉内閣は〝郵政解散〟まで強行し、民営化反対議員を造反組として冷遇したあげく法案成立にこぎつけた。こうした政治の世界での話が、今になって地方のタクシー運転手のぼやきになるとは民営化直後は誰も思わなかったに違いない。
 しかし現実を見てみると、確かに民営化後18年経って明らかに地方が不便になっているのは間違いないだろう。2025年度上半期だけを見ても、相当数の郵便局が廃止や一時閉鎖になっており、一時閉鎖のあとそのまま廃止になってしまう郵便局も多い。この減少傾向がこのまま続くと、いずれ地方に住んでいる人々の生活に影響が及ぶのではないかと危惧する。
 郵便局はいうまでもなく、郵便・貯金・保険といった国民が生活するうえで非常に重要な生活インフラを請け負っている。言ってみれば手紙とお金と死後の保証である。いくらメールやLINEが全盛といっても、手紙や小包の発送・受領は生活に欠かせない。またいくらキャッシュレスの時代になったとはいえ、お金がなければ生活が成り立たない。また、万一死亡したり傷害を負った場合の生活保障に保険は欠かせない。
 こうした最低限の生活インフラが、郵便局の廃止や閉鎖によって地方の方々がサービスを受けられなくなるとしたら、ますます地方切り捨てが促進されてしまうことになる。タクシーの運転手が言うように、日本は都会ばかりではない。むしろ大部分がいわゆる「地方」であり「田舎」である。
 そこに住む人が郵便局のサービスを受けられない事態になったとしたら、安心して暮らせる状況ではなくなる。郵便局は地域のために「安心・安全に暮らせる」役割を果たしているにもかかわらわず、民営化によって地方にしわ寄せが行ってしまうのでは、郵政民営化とはいったい何だったのだろうかと思わざるを得なくなる。
 郵政民営化が喧伝された当時は、民営化してもユニバーサルサービスは全国津々浦々で維持されると吹聴された。この根拠のない主張が結果的に郵政民営化を実現させたといっても過言ではない。しかし現実問題として、毎年郵便局が減少していく状況では、どこかで歯止めをかけないと生活インフラとしての郵便局の存続が困難になる。
 地域に密着したエリアマネジメント郵便局や簡易郵便局が無くなった場合、他の何がその地域を支えるというのか。最後の拠り所とも言える郵便局すら撤退する地域では、当然ながら他の金融機関や保険会社はとっくに撤退している。
 政治の世界で決められたことだが、やがてタクシー運転手の口からその弊害が漏れるようになった。彼の話を聞いているうちに、見ている田園風景がなんだか暗い景色に見えてきた。(有希聡佳)

2025年10月13日 第7322号

郵便局のいい話、もっと発信しよう!

   先日開催された郵便教育セミナーの中で紹介された、「天国から届いたランドセル」というエピソードを、引用も交えて紹介する。すでに知っている人もいるかもしれないが・・・。
 幼くして父親を亡くした女の子が小学校に入学する頃のこと。周りの子どもたちはみんな、親から買ってもらった赤いランドセルを背負って通学していた。しかし、その女の子の家庭は幼くして父親を亡くして、母子家庭だったので、ランドセルを買ってもらえるほどの余裕は無かった。
 女の子は家に余裕がないことを分かっていたので、ランドセルが欲しくても母親にねだることはしなかった。母親を困らせてしまうと分かっていたから。
 しかし、女の子は毎日友達と通学していると、どうしても赤いランドセルが欲しくてたまらなくなってしまう。通学路にあるお店のショーウインドーに飾られている、新品の赤いピカピカのランドセルをいつも眺めていた。
 ある時、女の子は考えた。「お母さんに迷惑をかけるわけにはいかないけど、私も赤いランドセルがほしい。そうだ、お父さんにお願いしてみよう。お父さんならきっと、私の願いを叶えてくれるにちがいない」。そう思った女の子は、天国にいるお父さんに手紙を書くことにした。
 まだ習いたてのひらがなで、女の子は一生懸命、お父さんに宛ててはがきを書いた。
 ―てんごくのおとうさんへ。わたしはことし、しょうがくせいになりました。べんきょうもがんばっています。いっぱいがんばっておかあさんをたすけようとおもいます。だから、おとうさんにおねがいがあります。わたしに赤いランドセルをください。いっぱい、いっぱいべんきょうして、がんばるから。いい子にしているから。おねがいします―
 天国へのはがきなので、宛名は「てんごくのおとうさんへ」と書いて、ポストに投函した。そのはがきがポストから取集され、郵便局の職員がそのはがきを見つける。小さな女の子が一生懸命に天国のお父さんに宛てて書いた文面。
 通常であれば、宛名不完全で差出人に還付されるが、このはがきを手にした職員は、仲間の職員に相談をする。
 「このはがき、どうしたらいいかな。還付するのはあまりにも残酷だよね・・・」「それなら、僕らがこの女の子の天国のお父さんになろうよ」「どうやってお父さんになるの?」「仲間みんなにお願いして、ちょっとずつお金を出し合って、女の子にランドセルを買ってあげようよ」
 そして、郵便局の職員のみんなで少しずつお金を出し合って、真っ赤なピカピカのランドセルを買うことに。ランドセルを小包に入れて、その郵便局で一番字が上手な人が代表してお父さんからのメッセージを書いて、女の子の家に送った。
 ―○○ちゃん(女の子の名前)、お手紙ありがとう。お父さん、とってもうれしかったよ。いつも頑張っているのを天国から見ているからね。これからも優しい人になってね。そして、お母さんを助けてあげようね。天国からいつも○○ちゃんのことを応援しているよ。ちょっと遅くなったけど、ランドセルを贈るね―
 数日後、女の子のもとに、ランドセルとメッセージの入った小包が届いた。女の子は飛び跳ねるように喜び、「お父さんからランドセルもらった!」とはしゃいでいた。数年後、女の子はこの話を作文に書いて、全国のコンクールで入賞したという。
 郵便局における心温まるエピソード、全国でたくさんあると思う。当事者にとってはそんな大したことではない、と思うかもしれないが、どんどん発信してほしい。郵便局の明るい未来のためにも。(九夏三伏)

2025年10月06日 第7321号

郵政民営化の検証を

   小泉純一郎政権下で郵政民営化法が成立してから間もなく20年が経つ。
 『日本経済新聞』の社説(9月27日)は「危機の今こそ20年前の原点に立ち戻るときだ」と書いている。「民営化は正しかった」という前提で主張を展開しているようだが、「郵便・金融一体」の収益構造を壊す分社化という制度設計自体が間違っていたとの意見もある。
 現在も自民党内には再公営化を唱える議員もいるし、再公営化を主張する政党もある。
 まず民営化によってもたらされた弊害についての議論が必要なのではなかろうか。
 民営化後、過疎地など収益性の低い地方で郵便局の再編やサービス縮小が進められた結果、利用者の利便性は低下した。昨年10月には郵便料金が30年ぶりに大幅に値上げされた。土曜配達、24時間窓口などのサービスが廃止され、不便を感じている利用者も少なくない。また、コスト削減のために非正規雇用の増加や人員削減が進み、サービスの低下を招いているとの指摘もある。
 鹿児島大学の吉田健一准教授は、郵政の不祥事について「郵政民営化自体に不祥事の原因があると思う」と述べ、人手不足が深刻化する中で、数字の達成を厳しく求められ、郵便局社員が非常に追い詰められていると指摘している(本誌6月2日号)。また、尾林芳匡弁護士は、民営化による経営効率化のしわ寄せが労働者にのしかかり、郵便局社員の過労死、過労自死を引き起こしていると指摘している。民営化法成立20年を迎える今、民営化について徹底した検証をすべきではないか。
 小泉政権は財政投融資改革が必要だと訴えて、民営化を主張していた。しかし、大蔵省(現財務省)出身の松田学参議院議員は、すでに2001年度の財政投融資改革によって問題は解決していたので、民営化当時、財政投融資改革の必要はなかったと明かしている。
 民営化をめぐっては、かんぽの宿のオリックス不動産への売却決定などの問題も起こった。
 いったい誰のための郵政民営化だったのだろうか。アメリカの金融業界の意向に沿ったものだったのか。郵政民営化準備室は2004年4月から1年強の時間をかけて法案を作成したが、その間に米国保険業界関係者などと17回もの会合を重ねていたともいう。
 民営化法には、日本郵政が保有している郵貯・簡保の株式を2017年までにすべて売却すると書き込まれた。そのため、ゆうちょ銀行とかんぽ生命が外資に買収される危機を警戒する声もあった。
 2009年の総選挙で民主党政権が誕生し、同年12月に郵政株売却凍結法案が成立し、12年の民営化法改正で、17年までの株式売却が「できる限り早期に」と改められ、いったん買収の危機は去った。
 6月に自民党、公明党、国民民主党の3党共同の議員立法で提出され、継続審議となっている民営化法改正案は、この「できる限り早期に」の文言を削除し、日本郵政に「当分の間」、ゆうちょ銀行・かんぽ生命の株式の1/3超の保有を義務付けるとしている。
 20年前の想定を上回るスピードで人口減少が進み、少子高齢化、過疎化が深刻な問題となっている。過疎化が進む地域では支所・出張所、金融機関、医療機関などの撤退により、住民が生活に不可欠なサービスを受けられない状況に陥っている。まさに「地域の最後の砦」として、郵便局への期待が高まっているのだ。
 このような状況への対応が急がれるからこそ、改正案は郵便局ネットワークを活用し、地域住民の生活を支援するために、公共サービスその他の地域住民が日常生活、社会生活を営む基盤となるサービスを、日本郵便の本来業務と位置づけた。
 当初、自民党の改正案には3事業の一体性維持を目的とした「日本郵政と日本郵便の合併」が盛り込まれていたが、合併については、施行後2年を目途として、政府が積極的に検討することを附則に盛り込むことになった。
 まもなく招集される臨時国会で、すみやかに改正案を成立させてほしい。(酒呑童子)
 

2025年09月29日 第7320号

 年賀はがき~日本人と縁起~

 来年(令和8年)用の年賀はがきの概要が発表になった。毎年8月の暑い盛りに年賀の発表になり、いささか気の早い話のようだが、新しいデザインやさまざまな仕掛けが毎年行われ興味深い。昨年は純金の年賀はがきが発売され、一部の富裕層に好評だったようだ。もちろん飾り用で、実際に年賀状として差し出すものではない。そして今年は静岡県の大井川鐡道とコラボし、縁起を担いだ新たな施策が発表された。静岡県内に「合格」と「門出」という縁起のいい名前の駅があり、受験生の合格を祈願した年賀キットを発売することになった。それぞれの駅の入場券と、合格駅から門出駅までの片道乗車券が台紙にセットされており、合格祈願のお守りも付いている。また添付の年賀はがきに受験生が願い事を記入して差し出すと、合格駅に配達されるというものだ。
 昨年の「黄金年賀」にしろ、今年の「合格・門出」にしても、明るい年になるよう縁起を担いだものだが、郵便局が年の初めに明るい未来を象徴するものを提供するのはいかにも日本的で面白い。絵入りはがき(全国版)のデザインに使われた「左馬」もしかりである。馬を逆から読むと「まう」になり、これは「舞う」に通じておめでたい意味になる。また普通、馬は人が引くが、左馬にすると逆に馬が人を引く意味になり、これは「人を招く」つまり商売繁盛を意味する。こうした日本人の縁起を呼び込もうとする思いは、おそらく他国以上に強いように思う。お正月の風習が年々薄くなってきているのは事実だが、初詣に出かける人の数は一向に減らない。減らないどころか増加傾向にある。年賀状の差出しは減少しているが、年の初めに願掛けする風習はおそらく正月の行事の中でも最後まで残るであろう。それだけ日本人は祈りを大事にしている証拠だと思う。
 この縁起を担ぐ風習は昔から日本人の心に根差していた。平安時代は「物忌み」や「方違え」などという風習があり、穢れがあるとされる日は一日中家にこもって外出しなかったり、縁起が悪い方向には行かず遠回りするなどしていた。方違えなどは地方によっては比較的最近まで実行されていたようで、外国人には謎の行動だったそうだ。日本人が「今日はこの方向は縁起が悪いから、こっちから遠回りして行く」と言っても外国人には理解されず、「なにゆえに縁起が悪いのか」となる。「そっちの方向に行くと、誰か悪人でもいるのか?」と思われる。縁起というのはそもそも根拠がなく、そういうしきたりなのだから仕方がない。しかし日本人にとってはそれを守ることで、心の整理が着き、納得して次の行動に出られる。
 正月に縁起を大切にする習慣は日本人独特のものだろうが、逆にそれをすることによって皆が新たな気持ちで新年を迎えることができる。12月31日といった年の瀬が終わるとともに新しい扉が開いて1から再スタートするすがすがしさもそこにあるように思う。根拠などなくても、それをしないとどこか落ち着かない。元旦というのは、気持ちの整理や区切りをつけて新たな気持ちになる貴重な日なのかもしれない。そして年賀はがきもそれを演出するひとつの手段かもしれない。
 次の正月は「合格駅」と「門出駅」が縁起担ぎの役割を担った。受験生は当然受験に合格して新たな門出を迎えたいだろうが、我々一般人にしても、「門出」には興味をそそられる。受験生でなくても縁起を担いで、新たな1年の門出を祝いたい。次の1年がどんな門出になり、どんなことが起きるのか。まだ残暑が残る日々だが、「受験生応援年賀キット」の写真を見ながら、次の自分自身の1年を想像してみた。(有希聡佳)

2025年09月15日 第7318・7319合併号

待ったなしの地球温暖化対策

 この数年で急激に地球の気温が上昇した。日本では各所で過去最高の気温を記録した。インドでは50度に達した場所もあり、中国ではスーパーで購入した卵を室内に放置していたらひよこが孵化したという。
 これだけ世界中で異常気象が続くと、地球そのものが異変をきたしたのではないかと思えてくる。そこで地球物理学の資料などに目を向けると、確かにいくつか異変が起きているようだ。
 ひとつは地球の自転速度の変化である。地球は24時間かけて一回転し、365日かけて太陽の周りを一周するが、その自転速度が微妙に変化しているという。
 そもそもなぜ地球が自転するのか。一般的に物が動くということは、外部から何かの力が作用しているからであるが、宇宙空間に浮かんでいる地球には外からの力はかかっていない。
 結論から言うと、その動力源は「慣性」である。太古の昔に多数の小惑星が衝突しながらやがて球体の惑星(原始地球)ができていき、その衝突する衝撃で回転し始めたのが最初である。
 そして、宇宙空間は無重力で抵抗がないため、今の地球の姿になってもそのまま回転を続けている。つまり地球誕生時の衝撃による回転がそのまま今でも続いているということで、それがたまたま一回転するのが現状24時間ということである。
 ところが、最近の研究で、必ずしも地球が永遠に同じスピードで回転し続けるわけではないことが分かってきた。いくら宇宙空間が真空で抵抗がないとはいえ、長大な時間をかけながら回転する時間は少しずつ遅くなっているそうだ。
 そもそも24時間というのも、原始地球の時代から24時間だったわけではない。計算によると約4億3千万年前は自転が速く、1日は21時間だったそうだ。
 それが約7千万年前の恐竜時代になると23時間30分で1回転となり、現代ではそれが24時間になった。1日が長くなれば当然地球が太陽光を浴びる時間も長くなる。それが地球温暖化の一因ではないかとも議論された。
 しかし、この自転速度の変化はあまり懸念する必要はないらしい。なぜなら観測によると、過去100年で1日が約0.5~0.6㍉秒長くなっているに過ぎないからである。
 1㍉秒は千分の1秒であるから、100年で2千分の1秒くらいしか自転が遅くなっていない計算になる。これだけの変化しかなければ、当然人間の感覚では全くわからないし、温暖化の原因とも考えにくい。
 では、何が原因となっているのか。それには様々な要因が重なっているようだが、大きな原因は温室効果ガスの排出量が各段に増大したことだそうだ。自動車や工場から排出されるCO2や空調設備から放出されるガスなどが地球を覆ってしまい、熱が逃げられなくなっている。
 そのため海面温度も上昇し、さらに温暖化に拍車をかける負のスパイラルに陥っている。中国やインドなど過去数十年で急激に経済活動が活発になった国の影響も大きい。この温室効果ガスの排出量増加に高気圧が重なったのが、一番大きな原因のようだ。
 今年の日本の現状を見ると、最高記録である41.8度に達した場所もある。約42度というのは体温を超えたどころではない。人間が42度の発熱をすればほぼ命がない。大気がそれだけの高温になること自体、地球が異常な状態に陥っている証拠であり、これは全世界で対策を講じなければならない。
 この状態をほうっておけば、氷河は大量に溶け出して海面が上昇し、各地でさらにゲリラ豪雨や洪水、川の氾濫が起きる。暑さ自体で人も熱中症で多数が命を失う。農作物は暑すぎて育たず、食料不足にもなる。地球の自転が人力ではどうにもならなくても、地球温暖化は人類の知恵でまだどうにかなるであろう。
 もはや近年の異常な暑さ対策を先延ばしすることは許されない、待ったなしの状況に地球が陥っているように思う。この全世界共通の問題に対し、世界は手を携え対応していかなければならない。(有希聡佳)

2025年09月08日 第7317号

暑い夏 扇子で心地よい風を

 8月5日に群馬県伊勢崎市で観測史上1位となる最高気温41.8を記録するなど、今年も全国的に猛暑に見舞われている。そうした中、暑さ対策として近年、街中でよく、ハンディファン(ハンディ扇風機、携帯扇風機、手持ち扇風機など)を持って風を浴びている人の姿を見かけることが多くなった。
 ハンディファンはデザインも様々で、ネックストラップがついたもの、折りたたみ可能なもの、さらには冷却プレート付きのものまである。
 私自身は持ったことも使ったこともないが、初めて見たとき、こんな小さな気休め程度のもので涼しいのかと、疑問に思った。しかし、使っている人に感想を聞くと、小さいけど結構パワーがあって涼しいよ、と言っていた。
 そのハンディファンだが、便利である反面、ニュースで怖い一面も報じられている。
 構造上、リチウムイオンバッテリーが内蔵されているタイプのものに多いが、突然爆発するという事故が発生している。充電中に起こるケースもあれば、首からストラップで下げて歩いているときに突然爆発するというケースもある。
 リチウムイオンバッテリーは充電することによって繰り返し使えるので便利だが、その一方で衝撃や高温、水濡れに弱いこともあり、発火や破裂によって大きな事故やケガにもつながりかねない。普通にハンディファンを使用して風を浴びていて、突然爆発したら怖いなと思う。
 爆発が起こる前兆として、ハンディファン本体が異常に熱くなっていたり、バッテリー部分やバッテリーそのものが膨らんでいたり、焦げ臭いにおいがしたりすることがあるという。でも実際、普段から注意深く見ていないと気付かないことの方が多いだろう。
 また、高温多湿の環境下で、体の表面に風を当てることで、逆に体内に熱がこもりやすくなり、熱中症など体調不良に陥る原因ともなる。外気温が高い場所でハンディファンを使用して、ハンディファンからの風が熱風だと感じる時は、使用を控えるか、または濡れたタオル等と併用するとよいという。これに関しては、使い方や場所、使うタイミング次第で対応できるものかなと思う。
 さらに、顔に風が当たるように使用する人が多いが、このことによってドライアイになるリスクを高めるという。
 ドライアイとは、様々な要因によって眼の表面に存在する涙が減少してしまい、目の表面に傷ができるなどのほか、心身の不調、眼の不快感や痛み、さらには視力の低下を招いてしまうこともあるという。失明につながることはほとんどないと言うが、生活の質が下がることも多く、決して看過できない。ハンディファンの風が直接目に断続的に当たらないよう、注意が必要だ。
 ハンディファンのデメリット部分を記したが、要は便利なものであっても、使う人が正しい使い方を守ること、製造・販売する側は間違った使い方の具体例や使用時の注意事項などを、しっかりと分かるように伝えることが大切だ。
 もう1つ、初めてハンディファンを見たときに思ったことがある。「団扇や扇子で仰ぐことすら面倒くさくなったのか」と。
 団扇は基本的に折りたためないのでかさばり、持ち歩くと邪魔になるケースもあるが、扇子は折りたたむとコンパクトになり、持ち運びにも便利だ。なので自分は扇子を愛用している。力を入れて仰がなくても、心地よい風を感じられるので、腕が疲れるという感じはしない。
 手紙は面倒なのでメールやSNSを利用するという人へ手紙の良さを伝えるように、扇子は安全で手軽に涼が取れる良いアイテムだよと伝えたい。(九夏三伏)

2025年09月01日 第7316号

航空郵便開始から100年

 現在、ドローンによる郵便物輸送の実用化が進められているが、航空機による郵便物輸送がスタートしてからちょうど100年が経った。航空郵便は1925年4月20日、東京―大阪間と大阪―福岡間で試験的に開始された。
 この日、東京と大阪から赤い〒の記号を表示した航空機が飛び立った。逓信書記官を務めた加藤恵義氏は「帝国郵便史上特記すべき門出の一歩」と称えた(『逓信協会雑誌』1925年6月号)。
 世界最初の航空機による郵便物輸送は、その14年前の1911年2月。インド北部のアラハバードで開催された博覧会のイベントの一環として行われ、約6000通の手紙がアラハバードから、6マイル離れたナンニ駅まで輸送された。
 加藤恵義氏の報告によると、1925年4月20日11時前、大阪中央郵便局の配達員が、赤地に白色で「飛行郵便」と記した腕章をつけ、大阪―福岡便に搭載する郵便物(書状122通、はがき331通)を届け、航空機に搭載した。
 大阪―福岡間を担当したのは日本航空株式会社。同社は戦後に設立される日本航空とは無関係で、川西コンツェルンを築いた川西清兵衛が設立した。川西は毛織物や鉄道などの分野で事業を拡大し、航空事業にも参入。海軍機関大尉を退役した中島知久平が1917年に創設した飛行機研究所に参画したが、中島と意見が合わず、1923年に自ら日本航空を設立した。
 同社が使用した飛行機は「川西式7型第1号」。大阪から福岡まで飛行する阿部勉飛行士は、野本正一大阪逓信局長と堅く握手を交わして搭乗、11時10分に出発した。午後2時40分に福岡の入船町飛行場に到着。
 一方、東京―大阪間を担当したのは、朝日新聞社が1923年に設立した東西定期航空会だ。当時、新聞各社は速報性を競い、航空機利用で鎬を削っていた。航空評論家の鈴木五郎氏は、大阪朝日と大阪毎日は火花を散らす航空競争を展開し、少しでも早く号外を出すか、現場写真を載せるかで寸秒を争っていたと書いている(『ああヒコーキ野郎』。
 東西定期航空会が使用したのは、フランスのサルムソン式。新野百三郎が飛行士を務め、書状69通、はがき129通を搭載して午後0時5分に立川を出発し、午後2時59分に大阪の木津川飛行場に到着した。
 当時、日本航空、東西定期航空会以外に、タクシー会社経営者の井上長一が1922年に設立した日本航空輸送研究所があったが、いずれも小規模で営業成績も芳しくはなかった。
 そこで、わが国の民間航空輸送事業を統括する国策会社を設立すべきという機運が高まり、逓信省の主導で会社設立が進められることになった。すでに1924年11月に逓信省に航空局が設置され、民間航空事業を管掌していた。渋沢栄一や井上準之助などの大物実業家の協力を得て会社設立が進められ、1928年10月に日本航空輸送株式会社が発足した。東西定期航空会と日本航空も合流した。
 日本航空輸送による本格的な航空郵便事業が開始されたのは1929年4月1日のことだ。従来、航空郵便物の表示は「飛行」だったが、事業本格化に伴い「航空」と朱記するか、「航空」と記載した票符をつけることになった。また、通常の郵便料のほかに航空料金を徴収することになった。
 航空輸送される郵便物は、開始当初は年間8万6000通ほどだったが、1933年には年間約51万5000通まで増加した。こうした状況に対応し、同年に郵便専用飛行機も導入された。この間、1929年6月にルートが東京―大阪―福岡―蔚山―京城―大連に拡大されていた。戦争による混乱の時代を経て、戦後は1954年に日本航空が国際定期便を開始し、国際航空郵便輸送を始めた。
 航空郵便は遠隔地への高速輸送手段だけでなく、災害時の輸送手段として活用されてきた。そしていま、過疎地などでの輸送手段、道路が寸断された際の輸送手段としてドローンに注目が集まっている。新たな技術が郵便・物流事業の発展を支えることを期待したい。(酒呑童子)

2025年08月25日 第7315号

土地が人間を支配した歴史

 バブルが崩壊して早30年以上が経過した。バブル時代を象徴する最たるものは不動産である。言い換えれば土地であり、さらに平たく言えば地面である。この地面が投機の対象となって多くの投資家を翻弄し、一喜一憂させた挙句にバブル崩壊とともに一気に価値が下がり、やがて多数の路頭に迷う者を生み出した。
 考えてみれば、ただの地面が人間にこれだけ大きな影響を及ぼしたのは不思議である。少し土地の歴史を振り返ると、まず太古の昔は土地に対する価値観など皆無だったかも知れない。人々は基本的には狩猟採集生活をし、その土地で獲物や果実が取れなくなると勝手に他の場所に移住するだけなので、特定の場所に対する意識付けがなかっただろう。
 ところが米の栽培が始まり、中央集権国家ができると、一気に土地はただの地面ではなくなった。米が税金としての機能を持ち始めたからである。なるべく広い土地を持つ者が支配者になり、強大な権力を持つようになった。つまり富める者とそうでない者とにはっきり2分され、格差社会はここから始まった。
 国は土地からあがる税金を制度化し、確実に国家財政にするために「班田収授の法」を制定し、6歳以上の男女に「口分田(くぶんでん)」と称して農地を貸し与えた。そこで人々は米作りに励み、税金として米を国に納めた。
 ところが、この年貢が非常に厳しく、天候不良などで不作でもお構いなしに一定の取り立てをされるため、納税が厳しくなると土地を捨てて逃げ出す者が続出してしまった。その原因の一つが、いくら一生懸命働いても「公地公民制」のため、所詮土地は国の物であり、自分の物ではないところにあった。土地を捨てて逃げたところで、別の場所でひっそりと暮らせばいいのである。
 そこで国は考えた。農民が逃げないように、耕した土地は孫の代までの三代は所有するのを認めることにしたのだ。これは723年に制定された「三世一身の法」といい、これが土地を個人で所有する始まりである。
 しかし、三世代目(孫の世代)になると自分の代で私有が終わってしまうため、やはり納税が厳しいと逃げ出す者が続出した。そこで国はまた考えた。期限付きがダメなら、いっそのこと耕した土地はそのままその人にあげてしまうことにした。
 これは743年制定の「墾田永年私財法」といい、ここから土地の所有者が明確になった。つまり土地を開墾すればするだけその土地は自分のものとなるため、人々はせっせと耕し、より広大な土地を所有するようになった。
 やがて財力のある貴族や大規模な寺社が広大な土地を所有するようになり、これが「荘園」となった。しかし大規模な荘園は管理するのが難しく、他人に略奪される事件が多発したため、彼らは荘園を警護する警備員を雇うことにした。
 この警備員こそが、後の武士である。戦国時代になると、この武士たちが領土争いをはじめ、大規模な国盗り合戦になった。土地を治めることで権力を増大させ、日本全土を統一した者が日本の最高権力者となった。
 こうして振り返ってみると、ただの地面であるはずの土地が、領土や不動産などと名前を変えながら人間を支配し続け、昭和になってその価値が一気に膨らみ、一気にしぼんだ。米を作る場所となり、格差社会の原因となり、権力の象徴となり、資産価値となる土地の本当の姿はなんであろうか。
 一つ言えるのは、土地は時代とともにその意味合いを変えながら人間をコントロールしてきたことだ。そのために多くの命が犠牲になった時代もある。何も言わず、ただ地面にひろがっているだけの土の塊にそこまでの力があるとは不思議である。
 アスファルトを歩く自分の足元を何気なく見ながら、今はこの地面にどんな意味があるのだろうと思ってみた。(有希聡佳)

2025年08月11日 第7313・7314合併号

多様な配達・受取方法を

 ここ一年くらいの間に、宅配便で荷物が届くことが30回ほどあった。そのうち、再配達を依頼したことが20数回あった。
 ある時、帰宅すると、宅配便の不在通知が投函されていた。時間も遅かったので、あとで再配達受付のフリーダイヤルに電話しようと思っていた。
 入浴を済ませ、食事をしていた時、インターフォンが鳴った。誰だろうと思って応答すると「宅急便です」の声。玄関を開けると「先ほどの不在通知の荷物です」とのことで、「ご苦労様です」と言って受け取った。
 さて、このことをどう受け止めるか。配達員の善意・・・いや、そうではないと思う。
 私の父は生前、某運送会社で配達業務に携わっていたことがあった。父は帰宅後、仕事のことを自分からあまりしゃべることは無かったが、夏のお中元や冬のお歳暮シーズンは相当大変だったようで、かなり疲れた様子だったのを覚えている。
 父とは離れて暮らしていたが、帰省した際に、父が仕事を終えて帰宅。一杯やりながら、何気に仕事のことについて話をした際に、父が「参ったよ、2回も配達行ったのに留守でさ。また明日配達に行かなきゃ」というようなことを言っていた。
 受取人本人から再配達希望の連絡を受けていたわけではないが、自主的にもう一回その日のうちに、不在だったところへ配達に行き、配達完了できればもうけもの、不在であれば再度持ち戻る。要するに、その日のうちにできる限り荷物を配達し終えておきたい、ということだったのだ。
 配達を担当するエリアは決まっている。車での配達なので、再配達が無ければ、当日の朝に配達順をイメージして、さらには荷物の大小、重さ、種別なども考えて、車に荷物を積み込む。そこに、再配達希望の荷物があると、希望時間帯によってはポツンとその荷物だけイメージしたルートを大きく外れて配達に行かなければならないケースが往々にしてあるという。大幅な時間のロスにもなる。
 顧客の立場としては、例えば田舎から荷物を送るから、と連絡があった場合に、「夜6時以降なら家にいるよ」「平日は帰る時間が読めないから、土曜日だと大丈夫かな」など、送り主に対して荷物を受け取りやすい日時等を事前に伝え、送り主がそれに合わせて配達日時等を指定して差し出せば、急なアクシデントでもない限り、受け取る側はすんなり受け取れるだろう。
 現在、再配達削減の機運が高まる中、受取場所の指定をはじめとした多様な配達オプションの提供、配達前にSMSやメールで顧客に配達予定時刻を通知して必要に応じて配達日時を調整できるサービスの導入をはじめ、運送各社は様々な策を講じている。また、集合住宅でのオートロック解錠デバイスの活用や、置き配サービスの利用促進など、運送各社以外からも動きが出てきている。
 置き配については、玄関ドア横に荷物(段ボール箱)が漠然と置かれた光景を何度も見ているが、盗難のリスクに加え、猫やカラス、ネズミなどによる被害も心配なので、自分はあまり利用したいとは思わない。置き配バッグ等を使用すればまだマシなのかもしれないが・・・。
 生活スタイルは人それぞれで、家族がいれば、誰かが家にいて、配達に来た際に荷物を受け取れるだろう。それが一人暮らしだったり、介護が必要な家族と暮らしていたりすると、要介護者だけが家にいる状態では、インターフォンが鳴っても応答することもままならない。
 受取人の都合だけでなく、運送会社、送り主、関係各方面を巻き込んだ国民的議論で、より良い荷物の配達の仕方、受け取り方の選択肢が広がっていくことを願う。(九夏三伏)

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