「通信文化新報」特集記事詳細
2025年09月15日 第7318・7319合併号
【主な記事】
原発事故の影響今も深く
記憶を風化させず記録も後世に
福島県浜通地区会
髙橋圭二会長(鹿島郵便局)
2011年3月11日に発生した東日本大震災により、日本郵政グループ社員等62名が犠牲になり、120の郵便局と39の簡易局が大きな被害を受け閉鎖された。福島県浜通地区では福島第一原発事故の影響で18局が閉鎖された。営業を休止していた双葉郵便局が昨年3月に営業を再開し、全国の市町村で営業ができるようになってから1年半が経過した。しかし、原発事故の爪痕はいまもなお深く刻み込まれている。福島県では7市町村(南相馬市、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)の一部に、現在も帰還困難区域が設けられている。震災、原発事故の際、郵便局では何が起きていたのか。いかなる教訓を汲み取るべきなのか。帰還困難区域を抱える浜通地区会の髙橋圭二会長に聞いた。
10郵便局が閉鎖中
■改めて東日本大震災による郵便局の被害について教えてください。
楢葉郵便局(双葉郡楢葉町)の佐藤健一課長代理、請戸郵便局(双葉郡浪江町)の吉田美紀主任の2人が、当時勤務していた請戸郵便局とともに津波の犠牲になりました。佐藤課長代理は未だ行方不明です。
真野郵便局(南相馬市鹿島区)では局長と社員2人が局舎とともに津波に流されましたが、局長と社員1人は近くの林にたどり着き、もう1人は漁協の看板支柱に6時間近くしがみつき、けがを負ったものの一命をとりとめました。
津波によって、豊間、請戸、真野、原釜、釣師浜、松川港、磯部の7局が全壊しました。このうち豊間局は2022年5月まで再開できませんでした。また、久之浜、四倉新町、江名の3局が一部損壊しました。
津波被害はおびただしく、震災翌日には家を失った住民が避難所に殺到しました。生活物資がほとんどない状態でした。そこで、原町郵便局(南相馬市原町区)をはじめ部会内の全局から、あるだけのラップ、タオル、ティッシュなどの営業奨励品を避難所に運び込みました。
■震災の翌日3月12日に福島第一原発1号機で水素爆発が発生、避難指示範囲が半径20㌔圏内へと拡大されました。さらに14日には3号機、15日に2号機でも事故が発生し、多くの郵便局が閉鎖を余儀なくされました。
原発事故により、浜通地区の18局(二枚橋、小高、楢葉、葛尾、浪江、富岡、大熊、双葉、津島、木戸、熊町、幾世橋、大堀、苅野、夜ノ森、飯館、飯曾、蛯沢)が閉鎖されました。
二枚橋が2012年12月、小高が13年4月、楢葉が15年10月、葛尾が16年6月、浪江と富岡が17年4月に再開されました。震災から10年以上を経て、大熊が22年4月に再開され、双葉が昨年3月7日に再開されました。しかし、現在もなお津島、木戸、熊町、幾世橋、大堀、苅野、夜ノ森、飯館、飯曾、蛯沢の10局が閉鎖されたままです。
多大な社員の負担
■福島県が2011年4月11日に実施した調査では17地点で1時間当たり10マイクロシーベルトを超え、浪江町の一部では地面から1㌢の高さで60マイクロシーベルトを超えていました。放射線被曝の恐怖を抱えながらの業務継続には大変な苦労があったかと思います。
南相馬市原町区内は、放射線の影響から政府により「屋内退避指示」が発せられていました。しかし、県外の人たちには、放射線被害に対する切迫感があまりなかったように思います。
3月13日に鹿島郵便局で他にさきがけて非常払いを行ったところ、開局している郵便局名が報道されたことにより、放射線から逃れようとする住民で窓口は混乱し、残って働いてくれた社員の精神的、肉体的負担は計り知れないほど大きなものとなりました。
3月16日に、統括局長の指示のもと鹿島郵便局の窓口を閉めましたが、本社の人事担当部長から「なぜ勝手に郵便局を閉めたのか」と叱責されました。4月15日に南相馬市に来訪した、ある衆議院議員からは原町郵便局を閉鎖していることでお叱りを受けました。
一方、支社からは津波被害を受けた郵便局に「個人情報を回収せよ」との指示が出されたため、回収のために歩き回らなければなりませんでした。そのため、放射線被曝やがれきによるけがなど、2次被害に遭う危険性がありました。衛生状況の悪化による健康被害のリスクもありました。
4月に入ってからも被災地は混乱が続いていました。ところが、支社からは平時と全く変わらない内容の大量の指示文書が発出され、被災地の現状が支社に共有されていないことに強い憤りを感じました。
被害に遭っても働き続けている社員、自宅退避している社員、避難した社員など様々でしたが、頑張った社員に対する労いが十分だったかは疑間です。(2面につづく)
>戻る
