「通信文化新報」特集記事詳細
2025年07月28日 第7311号
【主な記事】
風雪に耐え郵便物を運ぶ
地域に奉仕する郵便局の原点
「郵送隊の碑」建立 富山県南砺市
吹雪に耐え忍び、命の危険をものともせず雪山を歩いて郵便物を運んだ「郵便逓送隊」(通称・郵送隊)の功績を称え、後世に伝えていくために、5月31日に富山県南砺市に「郵送隊の碑」が設置された。
奥飛騨の白川郷と隣り合わせの秘境、富山県五箇山地方(現南砺市)は、北陸でも名うての豪雪地帯として知られ、12月から4月までの間は、積雪のため一切の交通機関が閉ざされ〝陸の孤島〟と化していた。地域の住民に郵便物を運んで文化の火をもたらす役割を果たしたのが郵送隊だった。
郵送隊の創設は明治15年に遡る。同年に下梨郵便局(現平郵便局)が開設され、2人の運送員が郵便物を郵袋に入れて背負い、片道約20㌔㍍の山中を徒歩で往復し細尾峠を越えて城端局まで受け渡しするようになった。
とりわけ冬期輸送の厳しさは想像以上のものだった。この方式が約50年間続き、昭和8年には城端局からも局員を2~3人出すことに改められた。
昭和20年、直送便が廃止され、毎朝9時に両局を出発して、中ほどに位置する細尾峠で郵袋を受け渡しする交換便が開始された。
その後、バスが開通したことに伴い、昭和31年から請負による交換便は冬期に限られることになった。
冬期の請負送は、当時の北陸管内では、利賀・仁歩(富山県)、白峰・尾口(石川県)、大野・勝山(福井県)等にあったが、平・城端線はその規模において全国でも最大と言われていた。
戦後の高度経済成長による生活様式の変化に伴い、年々小包が増加していった。魚、肉、野菜などの食糧品の他あらゆる物資=生活必需品が平村宛てに差し出され、2月末ごろには小・中・高校用の教育書が100袋余も到着したという。
請負送は、いつの間にか、郵送隊と呼ばれ、昭和45年に請負送による交換便に終止符が打たれるまでの88年間、冬の風物詩として地域住民に親しまれていた。郵送隊の大半は主婦。笠をかぶり、かんじきをはき約20キロの郵袋を背負った。多い時には20~30人ほどが隊列を組んだ。大雪や吹雪、雪崩の危険と隣り合わせだった。
取扱いの終了は、請負人の雇用難に加え豪雪地帯ゆえの雪崩などの危険も多いことなど、人命尊重の見地からの判断だった。この間、幸いにして人命に関わる事故は一度も起こらなかった。
5月31日の除幕式には、郵送隊を称える会の中島辰史代表(元北陸地方郵便局長会専務理事・元金沢中央郵便局長)はじめ、発起人代表の山本利郎全国郵便局長会顧問、南砺市平地域づくり協議会の南田実会長ほか40人が出席した。
旧平郵便局跡地に建立された碑は高さ2㍍、幅1・6㍍。平村出身の中島代表が北陸地方会や地元住民らに寄付を募り、923人から支援を受けた。
碑には豪雪の峠道を人力で郵便物を運んだ功績が記されるとともに、写真3枚が鮮明に表示されるなど、当時の貴重な労働の足跡を見事に表している。
あいさつに立った中島代表は、「今ならトラック1台で済むのを、雪深い山道を何人もが人力で運ぶしかなかった。地域に奉仕し、貢献する郵便局の原点として受け継がれていくと思う」と語った。
発起人代表の山本顧問ほかがあいさつし、郵送隊にいた石井惠美子さんは、「吹雪で前を歩く人が見えなくなることもあった。無事に帰って来ることだけを考えていた」と振り返った。
郵送隊の碑建立の発起人は、山本利郎全国郵便局長会顧問、北陸地方郵便局長会の上野徹顧問、岩城孝之顧問、上田彦哉顧問、石田尚史顧問、宇野憲二会長、北陸郵政退職者共助会の西川久雄会長、富山県呉西地区郵便局長会の山口正浩会長、北陸郵政退職者共助会富山県呉西支部の才田清志支部長、南砺市・元城端郵便局長の篠井公太郎さん、平地域づくり協議会の南田実会長、平地域区長協議会の近藤隆志会長、平郵便局OB会の山田勝芳会長、郵送隊を称える会の中島辰史代表。
郵送隊を称える会は5月末に小冊子「五箇山の暮らしを支えた郵送隊」を発刊している。
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