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2014年3月17日号

【主な記事】

春夏秋冬 簡易局のある風景❻❼[岩手県]
“3・11から3年”遅々として進まぬ復興
「いつの日か」を心の支えに地域と生きる

平成23年3月11日午後2時46分、「東日本大震災」が起きた。宮城県沖で発生した地震は観測史上最大のマグニチュード9.0。震源域は広く岩手県沖から茨城県沖の南北500キロメートルとされた。直後に巨大津波が発生、波高は最大40.1メートルにも達し東北地方を中心に関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な打撃を与えた。加えて福島第1原発事故が発生、多くの住民が避難を強いられた。死者・行方不明は今年1月で1万8517人。建物の全壊・半壊は合わせて39万9284戸。避難者は27万4088人と復興への道のりはまだまだ遠い。


 


■新川原簡易郵便局(小笠原日出紀局長)



 


JR釜石駅から、タクシーで大雪の残る釜石市鵜住居地区へと向かった。現地は瓦礫と崩れ落ちた鉄橋、河川、道路が残り雪野原と化していた。


 


新川原簡易郵便局は、昭和62年9月1日に父親の小笠原眞太郎さん(82)が受託者となり開局した。長年補助者として務めてきた日出紀さんが局長となったのは平成15年8月1日。「40歳になっており転職も難しく、ならば親父の後を継ごうと思った」。


 


几帳面で誠実な性格は父親譲り。地域で唯一の金融機関であり、昔からのなじみ客も多く信頼は厚かった。その約7年後の23年3月11日に東日本大震災が発生、押し寄せた津波が無残にも局舎を襲う。


 


局は海から2キロ以上も離れているので「まさか津波が来るとは思いもしなかった」と小笠原局長は振り返る。


 


突然、地響きが聞こえ、今まで経験したことのない強い揺れが続く。事務室はグチャグチャになった。揺れが収まり部屋の片付けをしていると、郵便事業会社支店の社員が顔を出す。郵便物の受け渡しを行ってから「危なかったら逃げろ」と声を掛けると局を飛び出した。


 


再び地震が襲う。書類や文房具類が床に崩れ落ちた。「片付けは警報が解除されてからでもできる。避難した方がいい」と表の国道に出た。「本当に津波が来る」と思う間もなく、70~80メートル先の川に真っ黒い物がすごい勢いで流れているのが見える。橋の欄干にぶつかった泥水と瓦礫がこちらに向かって溢れてきた。JR山田線の土手沿いからも瓦礫がガラガラと音を立て近づいてきた。


 


慌てて国道を峠に向かって走る。地域の人たちはどうなったか心配しながら頂上付近に着くと、避難した住民が集まっていた。小・中学生や園児もおり、自分の子どもにも会うことができ安堵した。


 


新川原と川原両地区の住民が少なく、不安になる。無事でいてくれと願うも、峠から見る鵜住居地区は津波で湖のようになっていた。写真を撮る人もいたが、「そんな気持ちにはなれなかった」。


 


夜になり雪が降り始め、救助に来たダンプに乗り、子どもたちと旧釜石中体育館に着いた。1000人ほどが避難していて一夜を明かした。「後片付けをして表に出るのが遅れたら、今ここにいないかもしれない」と恐怖の表情を浮かべた。


 


岩手県では死亡4673人、行方不明1143人、負傷213人。県の中部はリアス式海岸で津波高が増幅し易く、海岸線まで山地が迫り平地は少ない。そこに漁港と市街地があるため津波による被害が多かった。鵜住居地区には、防災センターがあり訓練も行われていたが、そこに避難した住民244人のうちの210人が犠牲となった。


 


震災直後、釜石東中の生徒は自主判断で避難所へ向かった。それを見て隣接する鵜住居小の児童も続く。第1避難所の介護施設に着いたところで全員の無事を確認、さらに高台へと中学生が小学生の手を取り逃げる。小笠原局長の子どももいた。住民も走った。600人は全員無事だった。


 


10メートルを越える津波で学校はのみこまれ、介護施設も1階が水没。施設では、入居者を1階から3階へ移動させ犠牲者は出なかった。“釜石の奇跡”と伝わる感動的な話だ。


 


新川原簡易局は、本社・東北支社の全面協力で旧局舎から1キロ離れたところ(土地は隣に住む郵便局OBが保証人)に24.5平方メートルのプレハブ(本社が建てた賃貸局舎)が建ち、24年11月1日から業務が再開された。


 


内部は2~3人用の長椅子があり、5メートルぐらいのカウンター、約3坪の事務室と手狭な印象だが、「早く開いてほしい」と強い要望が地元からあったので「ホッとした。うれしかった」と小笠原局長は本社・支社に感謝する。


 


だが震災後は利用者が半分近くに減った。戸数の多い仮設住宅ができたので期待したが「現実は甘くはなかった」という。局を維持するのも思いのほか厳しい。いつも業務で心がけるのは、地域住民への安心・安全・信用と確実な仕事、サービスの提供だ。本社・支社には、簡易局制度の維持・発展、多くの人が郵便局を利用してくれるような魅力的商品とサービスの開発を期待する。「区画整理後の新川原地区で、いつの日か自分の手で簡易局を開きたい」と小笠原局長、「一意専心」を胸に頑張る。


 


3年を迎えた被災地の復興は遅々として進んでいない。新川原簡易局を訪れるには、JR山田線の釜石~宮古間が不通になっており「急行バス」を利用するか車で行くしか方法はない。だが、不通になっていた三陸鉄道北リアス線の小本~田野畑間、南リアス線の吉浜~釜石間が4月6日と5日に開通するのは明るい話題だ。


 


■浪板簡易郵便局(大下タミ子局長)


 


 



 


 


「鯨山の頂上は360度見渡せ眺めが良く、そこから見る浪板海岸の朝日はとってもきれい」と顔をほころばす大下タミ子局長。嫁いできた時のことを思い起こす。浪板簡易郵便局は、昭和440年3月16日に義父の大下留蔵さんが開局した。


 


結婚して間もなく局の仕事に携わり三十数年。59年7月2日に2代目の局長になった。3畳一間の事務室から出発、補助者もなく業務を行い2人の息子を育てた。改正される度に業務マニュアルも勉強。「自分を褒めてやりたい」としみじみ話す。


 


優しく、明るく、頑張り屋の大下局長、その浪板簡易局が3月11日一瞬にして津波の中へ消えた。


 


夫は会社へ出かけ、家には姑と2人だけだった。最初の揺れがあった時「違う!いつもの揺れじゃない」と直感。避難訓練をし持ち出すものも決めていたが、「それどころじゃない」と96歳の姑を車に乗せ宿泊施設がある避難所の交流センターへ向かう。約200人が避難していた。3か月の避難生活を共にする。


 


警察や自衛隊の人たちが応援に駆けつけ、日本中から物資が届く。坂下尚登岩手県簡連会長(幸町)や本社・東北支社幹部らが見舞いに見えた。


 


特に、県簡連事務局の人は何回も来てくれた。サポートマネジャーは自宅が無くなったにもかかわらず、幾度も物資を持ってきて励ましてくれた。心の底から「ありがたかった。今まで郵便局の仕事をやってこられたのは、本社・支社はもちろん簡易局の仲間の激励とやさしさがあったから。一番のエネルギーになった」と振り返る。


 


平成24年11月1日、前の局舎から徒歩数分の場所で8坪に足りない5人以上入るといっぱいになるプレハブ(本社が建てた賃貸)で業務を再開した。周囲は津波で流され空き地が目立ち、先には浪板海岸がある。


 


震災後は、キャッシュカードを作る人が増え利用者は少なくなった。それでも、仮設住宅の人たちや昔からの顔なじみ、被害に遭わなかった山側の方々が見える。一人暮らしのお年寄りや「美味しいものが手に入ったから」と顔を出してくれる人もいるという。津波に襲われ、皆に助けてもらったのだから「局に寄って茶飲み話をし、和んでいただけたらうれしい」と大下局長。“親しみやすい郵便局”と地域から評判もいい。


 


最近、近くにコンビニエンスストアができた。「ATMも置いてあり、今後どんな影響が出て来るのか」と不安もある。


 


あの時から、ほとんど変わっていない。町の「未来を考える会」にも出席した。瓦礫は撤去され、膨大な予算が組まれても道路1本できない。行き交うトラックは、三陸縦貫道を建設するもの。今は「自分の家が一番欲しい。復興のスタートはそこから。いつか自前の郵便局を建てたいと思うが、見通しは立っていない。現在の局を維持するのも大変。生きなくてはと気を張りつめやってきたが、この先どうなるんだろう」と心配する。


 


「でもね…、やっぱり私は郵便局が好きなんですよ」、ニッコリ笑顔の言葉が返ってきた。


 

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